第37.3騒 うっかり目を離すと死ぬ奴。
煌々とした月が独占する空の下。
引き締まった体躯の男が、小柄な女の手を引いて、走っていた。
黄色味掛かった稲穂色の髪と、柔らかな金色の髪が、月の光で輝きながら跳ねる。
道を先導する男の方は安定した様子で、引かれるように走る女は少し息を切らせながら。
演劇場の舞台の如く照らされる月明かりは、二人が真剣な顔で走る表情まで克明に見せた。
追われている様子はないが、急いでいるのだろう。軍服姿の二人は、服装に違わず機敏な動作で土の道を抜け、大きな建物に入った。
周りの建物と比べると、その建物だけ低い立地に建てられている。三階建てと五階建ての二棟が並び、棟を繋ぐようにして平屋がある。彼らが入ったのは五階建ての方だった。
人気の無い静けさに、二人は繋いだ手の握りを強くして、長い廊下を音を立てずに進む。
廊下の最奥。手前にあった、平屋へ向かう分かれ道を更に先に進み、ようやく二人は足を止めた。
『医務室』と書かれた扉を開けようと、男が手を伸ばす。
その時になってようやく、手を繋いだままだったことに気付いた男は、慌てて手を離した。
そして何事もなかったかのように、医務室の取っ手を握る。
後ろにいた女が、若干耳の赤くなった男を見て、頬を染めたのだが、前を向いていた男は分からない。
互いに小さな咳払いをひとつ。
平静を取り繕った男が扉を開いた。
「おい! 息をしろ!」
「お願いやから息してやーー!!!」
「こら! 起きろ! 死ぬな!!」
「脈! 脈! 脈がっ!!」
入ってすぐにあるベッドで寝ている男を囲んで、四人の男達が大声で騒いでいる。
大柄で黒髪黒目の男が、真っ赤な顔で寝ている男の顔を叩く。
明るい茶色の髪を掻き乱しながら、蒼白な顔をした少年が必死に叫ぶ。
チョコレート色の髪と目の男が、寝ている男の胸ぐらをつかんで揺さぶる。
青い目を潤ませて、手首の脈をひたすら確認する。
それは修羅場だった。
惨状を確認して男は、背に隠れるようにいた小柄な女を部屋に招き入れ、扉を閉め、鍵を閉めた。
「お前達、落ち着け!」
騒々しさが急停止した。
注目を引き付けた男は、見えていないだろう背後の女を前に押し出した。
注視していた男達の目が、大きく見開かれた。
稲穂色の髪の男が頷いた。
「エフミト少尉を連れてきた!」
『!! さすがフランク教官!!』
前に出たことで部屋の状態に気付いたエフミトは、両手を口元に当てた。
「まぁ! 大変!」
エフミトはベッドの上で仰向けに寝ている男の手首を取って、首元に指を当てると、その場に膝を付いた。冷たい両手を握り込むように持ち、肘をベッドに置くと、力のない手を自分の額に当てる。
『癒しと豊穣の女神ノアン様、どうぞ女神さまの御力でこの者に癒しを与え給え…』
エフミトが言葉を紡ぐ。周りは息を潜めて、滅多に見ることのない、治療魔法を見ていた。
治療魔法は”癒しと豊穣の女神ノアン”の専売特許で、治療する全員が女神ノアンの敬遠な信者である。だいたいは神殿に属し、神殿で集団生活を送っている彼らには、独特の規律がある。
その規律ゆえに、滅多に治療魔法を見ることはない。
期待していた男達の目には、エフミトにも、寝ている男にも、変化はないように見えた。
(なんも変わってあらへんように見えるんやけど…)
(………そうだな)
宗教画のような一面を期待していた少年は、肩透かしを食らったような顔をした。
相槌を打った男の方も、目に見える変化を期待していた分、残念そうな顔だ。
ただ、手を握るエフミトだけには、ささやかではあるが、仄かな温かさが戻って来たことが分かった。
二、三度、言葉を変えながら、女神ノアンへ祈りと魔力と親愛を捧げる。
三度目が終る頃、寝ている男の胸が上下した。
見守っていた一人が、大きな手を恐る恐る、寝ている男の口の上に持って行く。
掌に、くすぐったいような息を感じた。
「息をしてるぞ!」
『おーーー!!!!』
その場にいる全員が肩を叩きあった。
「怖った! 本気で怖かった! 寝てると思ったらいつの間にか息が止まってんだからな、こいつ!」
チョコレート色の髪と目をした強面の男が、胸を撫で下ろして、寝ている男の頭を軽く叩いた。
「もぅ! 怪我人ですよ! デッシュ中尉」
「あっ。わ、わりー」
粗野なデッシュの暴力を叱ったエフミトの手を、黒髪黒目の男と、薄いブラウンの髪をした青い目の男がそれぞれ掴んだ。
「「ありがとうございます! エフミト少尉!」」
「バート少尉はともかく、アドルド三等兵は大丈夫なの? すごい隈よ?」
徹夜明けのような顔をしたアドルドは苦笑した。
軽く流されたバートは肩を落とした。
「カラト兄ちゃん、ほんま良かったわ~」
寝ている男の隣のベッドで上半身だけ起き上がっいた少年は、背中にあるクッションに体を預けて大げさに息を吐いた。
少年の捻挫している足を見て、エフミトは顔を曇らせた。
「ごめんなさいね、リラ君。カラト君に魔力を残しておきたいから、君の治療は後回しになるの」
「お構いなく! うちは捻挫だけやさかい! それより、カラト兄ちゃんの為に魔力を残しておいて下さい!」
もうあんな恐怖体験はいやや! とリラは怯えた顔で言った。
あどけなさを残した顔が恐怖で強張っているのが不憫で、エフミトはリラの頭を撫でた。
その少年を射殺す目でフランクが見ているのを、デッシュが肘で制止する。
そんな一連の行動に気付かないまま、エフミトはリラから視線を流して、立っている男達を見た。
「それで一体、カラト君達はどうしたの?」
心臓がほぼ止まっていたカラト。足を捻挫しているリラ。徹夜明けのようなアドルド。
一人だけ重症度が違うが、何かあったことは明白だ。
フランクとデッシュは顔を見合わせた。
アドルドは半歩下がって、目を伏せている。説明を指導教官の二人に任せたようだ。
フランクはエフミトを連れてきた責任もあるのだろう。どこまで話したものかと、エフミトを伺うように見た。
「軍の横領について、エフミト少尉は何か知ってるか?」
「噂だけなら」
新人寮担当となっているが、エフミトは出勤・昼食・退勤の時は衛生部隊に戻る。
女性の比率が多いので、軍内の噂話には耳が早い。
「どんな噂を?」
エフミトは碧眼の目を細めた。
「軍内で、横領が横行しているって話は前から知ってはいたのよ。新人寮の医務室から申請していた物資が届いていないっていうことが起きたし、衛生部隊と事務課が喧嘩したこともあったから」
それはフランクとデッシュには初耳だった。
新人寮には関係ないと思っていたが、こんなところで繋がるとは。
横領は随分と軍内を蔓延っていたようだ。
「最近、季節外れの大掛かりな人事異動が起きたから、横領問題が絡んでいるだろうなってみんなで話していたの。それぐらいかしら?」
フランクはエフミトに頷くと、水色の目を険しくした。
「実はその横領に、今期の新人が関わっていたことが判明した」
「えぇ!? どうやって!?」
エフミトは寝ているカラトを見た。今は死んだように眠っているが、普段は物静かな青年だ。
「……この子が? どうやって?」
信じられないと、呆然としたエフミトに、フランクは頭を横に振った。
「ちがう。それじゃない」
「えっ…違うの? いやだわ、私ったら、早とちりして」
早とちりとしたと照れるエフミトに、フランクの目が瞬間、蕩けた。
すかさずデッシュの肘が脇に入ったが、早すぎてエフミトには見えなかった。
いつもの薄い氷のような目に戻し、フランクは寝ている青年を見下ろした。
「横領に関わっていた新人に目を付けられたのがそれだ」
「あぁ、カラト君、お金ないものね……」
多くを語らずとも、青年が巻き込まれた経緯を理解したエフミトの目に、哀れみが浮かんだ。
「それで?」
「目を付けられたカラトを助ける為にアドルドとリラが動いた。ただ、間が悪かったというか、上層部の方でも動いていたから、結果的にこいつらが上層部を邪魔したことになっちまってな」
フランクが開こうとした口より先に、素早くデッシュが言葉を続けた。
エフミト少尉はカラトの件においては共犯者だが、横領においては無関係だ。
アドルドとリラから話を聞いた指導教官達は全貌を知ったが、それは本来なら、彼らが知ってはいけない情報のはずだ。
好意を持つ女相手に、うっかり口を滑らせないようにと、デッシュは続ける。
「本当は三人揃って謹慎ってとこなんだが、怪我人が二人もいるから、医務室で謹慎ってわけだ」
「ここで?」
不思議そうにエフミトはデッシュを見た。
今いるのは新人寮の、本来なら各教室があるところで、彼らの部屋は隣の三階建ての建物だ。
そもそも新人寮ではなく、本来の軍の医務室は別にある。そこにいれば良い。
デッシュは腕を組んで頷いた。彼も本来ならそうすべきだと思うのだが。
「俺が連れて帰った。新人が、本来は立ち入り禁止の施設の中にずっといるのは目立つし、横領問題に関わったことが知られて目をつけられたら厄介だからな」
そう言うデッシュの視線は、アドルドやリラには向いていなかった。
彼のチョコレート色の目は、ベッドに眠る青年にだけ向いていた。
一番目を付けられて困るのは誰か。エフミトは納得した。
「カラトの目のことは、上層部に話してねーからな。横領問題もあったから、噂でも流れるのはやばいと思ってよ」
溜息を深くして、デッシュが頭を掻いた。
確かにと、全員が深く頷いた。
「リラ君たちへの処罰は?」
友の為とは言え、作戦を邪魔したのだから、それなりの罰があるだろう。
エフミトも一応軍属なので、その辺りは理解している。ただやはり、友の為に体を張った彼らを罰するというのは、気分が良いものではない。
リラとアドルドの肩を持つエフミトに、事情を知る指導教官の三人は遠い目をした。
実際は作戦の邪魔というか、事案そのものを滅茶苦茶に引っ掻き回したのだが。
(普通、謹慎じゃすまないですよね)
(一番性質が悪い奴がいるからな)
(まぁ、こいつらもやっちまった感はあるが、公にするには微妙だよな)
処罰をするということは、彼らの行いを公して、沙汰を下すということだ。
やった内容を考えると、リラとアドルドの罰は軽くない。
しかし問題になるのは、カラトに対する罰だ。
彼自身は何もしていない。何もしていないのに、作戦を滅茶苦茶にした原因で元凶だ。
しかも、本人は何が起きたかすら分かっていない。
(誰が悪いとなると、カラトを囮に使った上じゃないですか?)
(上に同情するな)
(こいつ天然だからな)
「もしかして、重い罰なの?」
エフミトが青い顔になった。
返事が遅れた為、誤解をさせてしまったようだ。
デッシュは大丈夫だと、軽く答えた。
「カラトの体調が回復するまで、医務室で謹慎だ」
「それって、ただの看病よね?」
独房にいるより軽い罰のような気がして、エフミトは首を傾げた。
男達は全員、全力で首を横に振った。
「目を離したら死にそうになるんです。部屋で謹慎させるよりよっぽど堪えますよ」
「俺たちがずっと監視するとか無理無理」
「カラトの監視は24時間体制だ」
「カラト兄ちゃん、息をしとるかしてないんか、定期的に確認せなあかんさかい、大変なんや」
「リラは動けないから、俺が動くことになる」
寝ているのか死んでいるのか見分けが容易につかない為、いまなお緊張が続いている。
彼らの誰かが気付かなければ、死んでいる。
寝ていて気付きませんでした。は不味い。友として、指導教官として、それだけは避けなければ。
「思ってるよりも過酷なのね? って! また止まってるわ!!」
何気なく脈を確認したエフミトが顔を青くして絶叫した。
「蘇生だ! 蘇生!」
「死んでるのか寝てんのかわかんねーよ!!」
「まて! エフミト少尉、魔力は温存して! 先に魔法陣を!!」
誰かが小さな雷の魔法陣をカラトの胸において、陣をなぞって起動させた。
何度か規則的に、小さな小さな雷が起こって、寝ている身体が跳ねた。
ごほっと咳が出て、また息がはじまる。
はーーーーーーー。
「疲れた」
全員の心を、誰かが代弁した。
エフミト少尉は仕事中、男性には基本的に階級を付けて名前を呼びます。親しくなると、階級が抜けます。カラトとリラは、警戒心を抱かせない為に「君」呼びです。フランクを「さん」付けで呼びたいが、そうするとデッシュも「さん」付けで呼ばなければならないジレンマ中。