第37.1話 雑貨屋の少年の後日。
長い連休でへとへとに疲れ切り、立ち上がるまで時間が掛かりました…。今年の連休はしんどかった。
瞼の上から差すような光を感じて、ミランは薄目を開けた。
薄手のカーテンが風で舞い、太陽の光が部屋の中で踊っている。
慣れない眩しさから逃れようと寝返りを打つ。窓に背を向けるように横になると、眩しさが和いだ。
息を吐きながら、薄く開けていた瞼を閉じる。
寒くも暖かくも、強くも弱くも無い風が、カーテンを抜けて囁くように肌を撫でた。
心地よい冷たさを感じる風を、鼻から吸い込む。海の匂いだ。
誰の気配も感じない、静かな朝。
(………静か?……)
朝だというのに、荷物や人の行き交う音が無い違和感に、沈みそうになった思考が浮上する。
閉じていた目を開き、上半身を起こした。
開けた目から入る風景に、馴染みは全くない。警戒心よりも、不安が先に立つ。
「ここは……どこ……?」
白い天井に白い壁、白いシーツ。背後にある窓のカーテンも白く、ベッドと部屋を区切るように垂れたカーテンも白かった。
体を見れば貫頭衣のような白い服。記憶を思い出そうと頭に手を置くと、額に包帯の感触があった。
(怪我?)
混乱する頭を両手で抱えながら、引いた両膝に額を当て、背を丸める。
見慣れない景色を視界から隠し、目を閉じて、焦る心臓を宥めながら、ゆっくりと思い出す。
(そうだ。酒場に連れていかれて、軍人が来たんだ)
怪我をした記憶が無いので、その時のことを思い出そうとする。
急に、体が大きく震えた。
自分の身体が突然、大きく震えたことに驚く。大きな震えは一度だけだったが、後から続く小さな震えが止まらない。
縮めた体を、更に小さくなるように力を入れる。
(ど、どうしたんだろう?)
よくわからない症状に、宥めていたはずの心臓が大きく動く。まるで耳の真横で動いているようだ。
五月蠅いほどの心臓の音の中、カーテンが開いた音がした。
「起きたか」
誰かが来た。聞いたことのない声に、恐るおそる相手を伺う。
部屋と区切るように垂れていた白いカーテンが開き、金髪碧眼の男が立っていた。
「気分はどうだ?」
整った甘い顔立ちに、悪戯好きそうな笑顔を乗せて、男が見下ろす。
半袖の動きやすそうな白い服から、細身に見えながらしっかり筋肉のついた腕が伸びる。長い腕だ。視線を下げると足も羨ましいほど長い。深緑のズボン、編み上げブーツ……と、来たところで、鳥肌が立つ。
(軍人だ……ってことは、ここは軍?!)
立てた膝に顔を戻し、視線を逸らして考える。
「頭が痛いのか?」
ベッドの上で頭を抱えてうずくまっていたせいか、男がベッドに近づく。
間近に男の気配を感じて、身体が無意識に固くなる。
男の指が、頭を抱える手の甲に触れた。かと思うと、頭を抱えた両方の掌の上から大きな手が被さり、押さえつけられ、強引に顔を持ち上げられた。
視界いっぱいに、男の整った顔が映る。
眉を寄せた真剣な目で射られ、後退する体を頭にある両手で抑えられた。
逃げられないまま、相手の整った顔を直視する。
透き通った白い肌に、大きい青い目が映える。驚くほど睫毛が長かった。
丸みを帯びた顔に、柔和な印象を与える眉、繊細そうな鼻筋、形の良い唇。
見ればみるほど、軍人だとは思えなくなっていく。まるで演劇の人が軍人の役をしているかのようだ。
どれぐらい見ていただろう。見た目に反してごつごつした手が離れた時には、震えは収まっていた。
「気分はどうだ?」
離れたはずの片手が頭の上に移り、頭を撫でられた。
撫でているのか混ぜているのか迷う手付きだが、固くなった身体を解そうとしてくれているのか。兄がいたらならこんな感じなのかと思った。
「……ありがとうございます」
礼を言えば、男はひどく驚いた顔をした。
頭に手を置かれたまま、ミランは、恐るおそる男を伺った。
「あの……ここ――」
「ここは第二公国軍本部の医務室だ」
やっぱり、と気分が落ち込む。
軍施設といえば、遠目にも近くにも見慣れた建物で、公開演習で何度か入ったこともある。ただ普段は厳重に街と分けられていて、特別な日でもない限り、一般の人間は近づくことが無い。
そんなところにいる理由はと考え。考えるまでもなく昨日の件だろう頭垂れる。それ以外ありえない。
ただ、記憶があるかと問われると、あるともいえるし、ないともいえる。
少し思い出そうとするだけで、小さな震えが走った。
頭に手を乗せていた男にも、その震えが伝わったようで、こちらを見ていた男の眉間に皺が寄った。
「どうした?」
なんでもないと首を横に振ったが、男の眉間の皺は無くならない。
「大丈夫……です……」
「いや、大丈夫じゃないから」
断言されて、なぜか驚いてしまった。
「んーーーまいったね」
「すいません……昨日のことだってわかってるんですけど……酒場に行ったことを思い出そうとすると、震えて……………うまく、思い出せなくて……」
困らせているようで、申し訳なくて、涙が滲んだ。
「…大佐ぁ…」
「すいま、せん」
「いや、君は悪くない。話せるとこまででいいから」
「……すいません」
混ぜるように、撫でるように、宥めるように、不器用に手が動く。
「この状態で事件のこと聞くの、罪悪感が半端ないんだけど」
小さな声は聞こえなかったけれど、涙を拭って顔を上げた。
同じベッドに腰掛けた男が、困ったように眉を顰めている。
「とりあえず、事件の朝は何時に起きた?」
「……五時です」
「クソ女に見習わせてぇ」
「? え?」
「こっちの話」
頭に置かれたままの大きな手に後押しされ、ミランはぽつりぽつりと話して行く。
親の言いなりになるのが苦痛になって、同じような年頃の男仲間と集まっていたこと。そこには大人の上役がいたこと。今回はその上からの命令で鞄を探すことになったこと。
要領の得ない所もあったし、言わなくて良い所もあったが、男は急かすことなく話を聞いてくれた。
「上から話を聞いたのは当日の朝か?」
「何日か前からその日は手伝えって言われてて。でも内容を僕が聞いたのは朝です。みんな、見つける気なんてなかったから、適当に街を歩いて終わろうって……途中で見かけた軍人さんも怖かったし……」
思えばその時すでに、軍人への恐怖心があったのだろうと、ミランは思った。
正直に、逃げている人を追う軍人が怖かったことを伝えた。
鞄を奪えと言われて怖気づいたこと。でも人相から軍人じゃないと安心して、怒られない程度に探そうとしたこと。見つかるはずがないと思って探していたが、偶々出会ってしまったこと。相手が店に入った先で、鞄が取り換えられたこと。取り換えられた鞄を追って後を追ったこと。
「窓から店内を見てたって……餓鬼だから許される行為だな。それ、大人になってやったら怒られるぞ」
「そうなんですか?」
「女性客が多い所を男が覗くなんて真似は、多大な誤解を受けるから辞めた方が良い」
「…わかりました」
「お前は素直で良いな」
首を傾げた少年に、疲れたようなため息を吐く男。
「続けてくれ」
鞄が傭兵から、自分達と同世代に見える相手に手渡された時に、仲間が奪ったこと。それを投げられて、一人で持って逃げたこと。逃げる途中で、おじさんにぶつかったこと。
「そこを詳しく」
「え?!」
焦った。鞄を受け取るはずだったのが幼馴染だと、ばれたのだろうか?
もしかして自分のせいで幼馴染に迷惑が掛かるのだろうか?
思考が渦になって回る。
それをどう受け取ったのか、男が先を促す。
「誰とぶつかったって?」
(そっちだった!)
よかった。幼馴染のことは、ばれていないようだ。
安堵して、その時のことを思い出そうとすると眉が寄った。
あの時は急いでいて気にしていなかったのだ。どうだったかなと思い返してみるも、全く役に立ちそうなことは覚えていなかった。
「えーーと。鞄を持って走ってるときにおじさんにぶつかっちゃって……ぶつかったおじさんは直ぐに走っていきました。背丈は僕と同じぐらいだったような?………すいません。僕もすぐに鞄を拾っておじさんと反対の方へ走ったんで、顔とはよく分からないです」
「それだ!」
「え?」
「いや、こっちの話」
おじさんのことはそれ以上覚えていないので、疑問に思いながらも話を続けた。
上に鞄を持って渡しに行ったら、そのまま酒場に連れていかれたこと。それから、と話を進めていこうとするが、どうしても酒場に入った辺りになると体が震え、上手く喋れなかった。
「………っ」
手の震えを止めようと力を込めて掌を握りしめるが、逆に体が震えた。
「………もういい」
人生で一番雑に頭を撫でられた。きっと髪の毛がぼさぼさになっているだろうが、嫌な気はしなかった。
男は頭から手を離し、そういえばと聞いてきた。
「持っていた拳銃、あれは誰かがくれたのか?」
拳銃のことを思い出そうとすると、酒場へと記憶が流れ、気分が悪くなる。
「……あの小さな拳銃ですよね? あれは、いつだったかな、拾ったんです」
「どこで?」
「倉庫街の所で」
酒場を意識から除けようと、ミランは饒舌に喋った。
「餌付けしている猫がいるんですけど、よく見慣れないものを拾いにいかされるんです。その時は変な拳銃だなって思って部屋に仕舞ってて、そのまま持ってたことをすっかり忘れてたんですけど、朝に猫が来て、もっていけっていうみたいに隠し場所から引きずりだしてきたんです」
喋りながら、思い至った。
もしかしたら、あの拳銃は軍の持ち物だったのだろうか?
一目で拳銃みたいだと思ったのだから、拾ってすぐに軍へ届けをすればよかったのだ。
当時の自分を恨みたい。その時は自分のことばかりで、そんなことにも気が回らなかった。
怒られるかなと、男を見れば、男は片手を目に当て、天井を仰いでいた。
「……まさかの猫探知………」
「え?」
「……しかも一歩間違うとお蔵入り案件……」
「え?」
「いや、こっちの話」
顔を戻した男は、ひどく疲れている様子だった。
「ありがとう。後で拳銃を拾った場所を一緒に確認に行って欲しい。そうしたら君は解放するよ」
(やっと終わった…)
寝起きだというのに、すっかり疲れてしまった。
「あの……家には……」
ベッドから腰を上げた男が、片目を細める。
そうすると、随分と意地悪な顔になった。
「君がどこの誰か教えてくれたら連絡するよ。まぁ、帰ったら怒られな」
「………はい」
軍から連絡なんてしたら、母親が倒れてしまう。
口を噤み、男から目を背けた。上から苦笑が降ってくる。
「もうしばらく寝ていると良い」
「はい」
また頭を混ぜられた。いつも家に来る猫はこんな気分だろうか。
話をしてすっきりしたのか、終わったと言われて安堵したのか。
今まで寝ていたというのに、目を閉じると直ぐに意識が沈んだ。
カーテンを引き、音を立てないようにベッドから離れる。
少年の寝息は直ぐに聞こえてきた。
昨日の今日で疲れているのだろう。
「精神的に衰弱してるせいだよな」
頷きながら医務室から出ると、入口の横で上司が壁に背を預けて立っていた。
居ると分かっていたので驚きはないが、相変わらず気配が無くて怖い。
「恐怖で記憶が混乱してるとか。よっぽど大佐が怖かったんだろうな。すごく良く分かる」
「聞こえている」
「申し訳ございません」
少年の酒場での混乱ぶりから、精神的な傷を負っている可能性も考えて、一番軍人に見えない自分が、あえて軍服の上を脱いで面会に行ったのだ。
結果は大正解だった。少年は精神的に、しっかりばっちり傷を負っていて、本当に申し訳ないと思う。上司は子供にも一切手加減がないのだ。
感動するほど素直な少年だったので、心の中で謝っておく。
「大佐、話は繋がりましたか?」
「理解は出来た。至るまでは不明だが、筋は通る。荒唐無稽だがな」
まぁ、そうだろう。
偶々や偶然が多すぎて、自分も他人から聞いただけなら何の冗談だと怒るところだ。
実際に遭遇した身でも、未だに信じがたい。”偶然”が怖すぎる。
腑に落ちない事件の顛末に遠い目をしていると、上司が音も無く目の前の廊下を歩いていた。
いつ壁から身を起こしたのか分からなかった…。
「大佐、どちらへ?」
「元帥の所だ」
声や姿はあるのに、動きに気配や音が無いせいで、ふと目を離すと消えている上司を見送った。