第35.1騒 長い一日の夜1。
小さな四角い暖炉が、夜の帳を感じて柔らかい火を灯す。
陰影を深めた店の中は、荒れ果てたというに相応しい有様だった。
足の踏み場もないほど飛び散ったガラスの破片、転がる酒瓶、足のなくなった椅子。
窓が割られていないのが不幸中の幸いだろう。
それだって、窓の近くに積み重なるように拘束された男達が、壁となっていたからに他ならないが。
柄の悪い男達は、上に人を重ねられた重しと傍で見張る軍人達の圧力によって、動けない。
彼らが動けないのは当然だが、ほぼ沈静化された酒場で、本来なら、後処理や手配やらとせわしなく動いているはずの軍人達も、動きを止めていた。
緊張と、多大な困惑の色合いを持って、彼らは店の奥にいる二人を注視していた。
そこには、身長に筋肉が追い付いていない一人の少年と、栄養が筋肉にまで行き渡っていない一人の青年がいた。注視する側に言わせれば、どちらも吹けば飛ぶように細い。
店の奥、距離でいうと四メートルはないだろう。一歩より遥か遠く、走るには極近い。
飛び掛かるには少し距離が足りず。駈けるには寸足らず。
そうと意識してではないだろうが、絶妙な距離と言えた。
少年は、青年を人質に、短か過ぎる鉄の銃を青年の米神に押し当てている。
まだ年若い、幼いと表現しても良い少年で、その手付きは馴れなど一切なく、見ているだけでも恐怖に体が震えているのが分かった。
頬の膨らみも残るあどけない顔は血の気が引き、完全に瞳孔が開ききっている。
少年の持つ鉄の銃がどれほどの威力を秘めているのか。軍人である彼らはその威力を正確に把握していた為、どんな行動を起こすのか予測不能な危険を孕む少年を前に、迂闊に動くことが出来ない。
落ち着かせようとは思うが、見た目からして威圧感のある男達ばかりである。
そして、この場にいる、唯一、威圧感を与えない軍人が、人質にされている青年である。
新人といえど、毎日厳しい訓練を受けている身である。普通ならば、自力でどうにか出来るぐらいの力量があるはずだ。いや、あらねばならない。相手がド素人のひょろ長い少年であるのならなおさら。
しかし、人質にされている青年の顔色は、少年よりも悪かった。
少年の身体は恐怖に震えているが、青年の身体も小刻みに震えている。
青を通り越して白い顔色。寒いのか、唇は紫に変わり、指の先から歯まで、細かい振動が起こっているかのようだった。
見た目だけでも十分、命の危険が高いことが分かる。
青年の手の平から流れる鮮やかな血は、ひびから漏れ出る水のように、垂れた腕の指の先から滴り落ちていた。
彼らは困惑していた。
軍人と裏社会の闘争現場で、存在外だった非戦闘員の二人が、初めに保護されるだろう二人が、この場にいる誰よりも顔色が悪い二人が、小動物のように震えている二人が、なぜ犯人と人質なのかと。
青年の米神に当たる銃が震えているのは、少年の恐怖に慄く震えなのか、青年の命の震えなのか。
冷静に考えれば、青年の命は危ない。いろんな意味で。
硬直した店内の様子に、時間を惜しんだギンブリーは、場を収めようと動いた。
「その鞄を大人しく渡せ」
意識的に低い声を出し、少年の目を見据える。
ただでさえ怖がっていた少年は、肩を大きく震わせた。
………それだけだった。
普通なら、圧倒的な実力差を感じ、降参するだろう気迫を込めたのだが、少年が余りにも素人すぎて、ギンブリーの気迫が理解出来なかったのだ。周りにいた軍人たちの方が、揃ってギンブリーから距離を取った。
「撃てば重罪だ。今なら二、三日の取調べで解放すると約束しよう」
子供といえども容赦しないのがギンブリーだ。
それが一見、ただの子供であったとしても、武器を手にしている以上、気を抜くことは無い。
見据えられる目から、視線を逸らすことが出来ない。
何か別の生き物と相対しているような感覚が、ミランを襲う。
「はぁ…はぁ…はぁ」
喉が渇く。息が苦しい。
ミランは、自分がどうしてこんなことをしているのかと、疑問が小さな泡のように湧いた。
突発的な行動に、意味なんてまるでなくて。
使い方もろくに分からない物を持って何をしているのだろうかと。
浮き上がった疑問の泡は、一際威圧感のある軍人に睨まれた時、恐怖という波に流された。
逃げたいという本能が、理性を荒波に沈めて飲み込む。
どうしたら逃げられるかなんて、全くわからず、ただただ逃げたかった。
「鞄を投げろ!!」
「黙れ!!」
大きな声に、ミランは震えた。
ひどく狭い視界の外から、怒鳴り声よりも激しい声が聞こえた。
顔を向けると、酒瓶が転がる床にうつ伏せにされ、背中に乗られた軍人に両腕を拘束されている男の人がいた。
その場面は、ひどくゆっくりと流れた。
男の人は、隣にいた軍人に拳骨で殴られた。
男の人は、叩きつけられた衝撃で床の上で顔が跳ねた。
男の人の、歯が折れた。血が舞う。
喉の奥が締まった。
その行為に、誰も何も言わない。
当たり前の行為なのだ。
動かない男は、強いと思った男は、世界が違うと気圧された男は、簡単に軍人に倒された。
恐怖の荒波が身体まで飲み込む。
「鞄を渡す気はないか?」
激しくなった自分の身体の震えを、膜がかかったかのように遠くに感じながら、ミランはまた、声のある方に視線を変えた。
一人だけ軍服の色の違う、軍の偉い人が問いかけている。
まるで何もなかったかのように!
なのに、心が揺れた。
威圧感はそのままに、少し角をとった声色に。
恐怖の中で感じた優しさは、たった一つの救済のようだった。
縋りつくように目を合わると、先ほどの言葉が蘇る。
『今なら二、三日の取調べで解放すると約束しよう』
先ほどのやり取りを見て、未知の取り調べに対する不安が膨れ上がった。
(どうしよう)
取り調べは怖くて不安だ。でも今を逃げる為なら何でも縋りつきたい。
でもやっぱり軍人は怖い。思考が巡る。
(どうしよう どうしよう)
どうしようと思っても、どうしようもなくて。
――結局、何も出来ない。
少年の、恐怖で瞬きも出来ない瞳から、涙が零れた。
ギンブリーは、精神の限界を超えはじめた少年を、冷静に分析した。
恐らく、暴力と一切無関係な日常だったのだろう。
後ほんの少しの刺激と威圧で、少年の精神は崩れる。
心に大きな傷を受けるだろうが、気絶してくれた方が話が早くて安全で、丸く治まる。
外が暗くなってきている。それほど時間を掛けるべきではない。
「若いのに残念だ」
ギンブリーは決断した。
「はぁはぁはぁはぁ!」
少年の歯の噛みあわせが外れ、銃口の位置が定まらなくなった。
その時、今まで一切抵抗をせず、大人しかった人質の青年が、少年を振り返った。
振り返った時に、青年の前髪から目が覗く。純金を溶かしたような綺麗な黄金色。
長い年輪を超えた琥珀に光を押しこめたような不思議な瞳は、少年の意識を強引に奪い、身体と精神を襲っていた荒波を落ち着かせた。
「「ぐあっ!」」
正気に戻ったミランに、痛みが襲った。
頭に石をぶつけられたのか、震える手でなんとか持っていた銃も落としてしまった。
痛む頭を押さえる為に、青年のいる前ではなく、後ろを向いて頭を押さえる。
理性が戻った頭でも痛みは変わらず、痛みを逃がそうと奮闘していると、服を強く掴まれた。
腰のあたりに何かぶつかり、もつれた足が身体を傾ける。
――転ぶ!!
『あ』
とっくに握力のなくなっていた手から、床に手を付ける為に自由にした手から、鞄が飛ぶ。
そういえばそんな物も持っていたなと、ミランは今更思い出した。
青年ともつれるように床に倒れたミランは、絶叫を聞いた。
『あーー!! !!』
「全員、緊急退避!!」
「逃げろ!!」
何を慌てているのだろうかと、限界を迎えていたミランは、薄れいく意識の中で思った。
暖炉に溜まった灰が大量に舞う。
昔、幼馴染の工房で悪戯に付き合わされた時と同じだ。
幼馴染だったのに。友達だったのに。自分と一緒だと思ったのに。
なんの相談もなく一人で決めてしまった。楽しそうだった。
(そうか……僕は……)
自分で道を決めた幼馴染が羨ましかった。
家族に反対されても貫ける信念が眩しかった。
夢を持っている幼馴染が妬ましかった。
置いていかれたようで悔しかった。
漠然と進む道が決められていることが苦しくて、だけど何も遣りたいこともなくて、闇雲に反発したけれど。
――--僕は、寂しかったんだ。