第13.5騒 荷物を運ぶ日の天然。
野菜で野菜を重ねて野菜で塞いでいた寸胴の鍋は、底にわずかばかりの汁を残すだけになった。持ってくるときは重いばかりだった鉄鍋が、ずいぶんと軽くなったものだと、机に重なって連なる空の皿を視界に入れつつ、やる気の起きない体をなんとか頬杖で支える。
そんなサラスを見かねて、ギンブリーが熱い珈琲を入れて持って来る。
鍋をつついた時と同じ席に座れば、なぜか男が二人並んで座る、奇妙な光景になった。
サラスはギンブリーから珈琲を受け取る。
どれほどの熱湯から注いだのだろうか。蒸気船のように湯気を立ち上らせる焦げ茶色の水面は、白磁のカップを隔ててなお、焼き上がったばかりのパンのような熱さを伝えてくる。
口をつけれるわけがない。
サラスは食べ散らかしたままのテーブルに、ソーサーとカップを置いた。
軍人の男二人だけの場には似合わない、薄い陶器が触れ合う、小さく高い音が鳴った。
「お前がたよるとは思わなかった」
「真面目っすよね。それだけは確かっすよ。全く何も考えていないようっすけど!」
サラスは荷物運びに使われた青年を使うのが気に入らないようだ。
ギンブリーは特に何も思わない。
嫌いな相手から頼まれた中身の分からない荷物を、気絶してまで手放さない。
義理堅いというか、約束は守るという姿勢には好感すら持てた。
「兄弟は盲点だな。家に帰ればいくらでも話が出来るうえに、口裏も合わせられる」
「兄として弟を危険に晒すのはどうかと思うっす」
「だからこその身代わりだろう」
身代わりにされた青年にしてみれば、たまったものではないが。
物事を深く考えるのが苦手そうな青年は、今回の頼みごとも、深くは考えていない様子だった。
ギンブリーは隣の男を見た。
仕事に限定しているが、三十年近く付き合いのある相手だ。
「………お前にも苦手な相手がいたのか」
「そうっすよ! ああいう予想不可能な行動をする相手は苦手っす!! 腹が減って号泣とか、可笑しいっすよね!? ああいう人種は、窓を閉めて部屋に鍵をして、大事なものを壊されないように保管している部屋の真上で水漏れを起こすような人種っすよ!!」
現場を想像したギンブリーは、十分に有り得そうな状況だと思った。
そこまで読めるのに、何を苦手と思うのか。
「天然を、舐めてはいけないっす」
サラスは天然が苦手だ。行動の読めない天然が苦手だ。
ただの天然なら場が乱されるだけだが、真正の天然は、場そのものを粉砕する。
「だからこそ今回の役には最適だった」
「わかってるっす! わかってるっすけど、苦手なものは苦手なんすよ!!」
「…………」
真正の天然を相手にしたことのないギンブリーは、サラスの苦悩を理解出来ない。
サラスは、自身の想像の範疇外のことを仕出かす天然が苦手なのだ。サラスが考えつくことは既にサラスの範疇内で、平たく言えば、サラスが苦手と感じた例の青年は、サラスの手に負えないと言っているのも同義語であると、ギンブリーは気付いていない。
ギンブリーはこの事件によって、真正の天然がいかに恐ろしいかを思い知る。
高い天井に、何枚もの艶のある深い色合いの長い布が、さざ波を形作っている。美しい上質な布地の重なりに光を与えるのは、高さよりも横幅のある煌びやかなシャンデリア。臙脂<えんじ>色のソファに座り真上をみると、まるで深い海を覗き込んだかのような錯覚を起こさせる。
黒と白の紋章柄の絨毯、年代物の重厚な調度品に、グランドピアノ。
至る所に生けられた生花は、店の雰囲気の通り、華やかでありながら落ち着いている。
建物自体は古く、壁などは特に古さを晒しているが、店内に漂う樹木のような深い趣の香が良く似合う。
日常とはかけ離れた、優雅で上品な空間。
男たちに、仮初の甘さを滴らせる最高の場だ。
しかし今宵は、仮初の甘さがお気に召さないのか、男の入りが悪い。
オーナー兼店長の女は、珍しく閑古鳥が鳴いた店に早々の見切りをつけ、待合室で待機していた娘たちに言った。
「今から飲みにいくわよ!」
ママが娘たちを誘う時は、決まってママの奢りだ。
客待ちで暇を持て余していた彼女たちは歓声を上げた。
すでに店の中で飲んではいるのだが、気心知れた仲間内で飲むお酒は格別だ。
明日は店の定休日。お金はママ持ち。何も考えず楽しめるとあれば、彼女たちがはしゃぐのも無理はない。
互いに急かしながら服を着替え、弾むような空気の中に、取り留めのない言葉が混じる。
「今日のあの客、やばくなかった?」
「そろそろ新しい化粧品買わなきゃ」
「私、占い師さんに、今日、酒場に言ったら出会いがあるって言われたの!!」
「その服可愛いわね。どこの服?」
「後ろ、ホックとって~」
手と同じぐらい口を動かしながら、支度を整える。
彼女たちが行く店は決まっている。ママの愛人の一人がやっている酒場だ。
特に特徴も無い店だが、彼女たちが勤める店に近いうえ、一人で行っても身の危険を感じないばかりか、悩み事を相談したり、何かあった時にはママとの仲を取り持ってくれたりする、大事な店なのである。
すでに全員、マスターと顔なじみで、店に入る時も「やっほー、マスター。来たよー」と、女たちの中でも一番若い女が扉を開けるぐらいだ。
平屋のこじんまりとした酒場には、椅子のあるカウンターと、椅子があったりなかったりする丸テーブルがある。ソファは壁際に置かれた二人掛けの一つのみで、常は使われていない。
今日はこの酒場も閑古鳥が鳴いているらしく、客は少なかった。
椅子のある丸テーブルに常連客が二人。カウンターの椅子には、年若い青年一人だけ。
しかしカウンターの青年の隣にはマスターの娘が座り、向かい合いながら身を寄せ、熱心に何かを話している。
女たちの好奇心が疼いた。
(恋人かな?)
(マスター表情は読めないわ)
入口で囁いていた女達の中から、一人の女――ママが動いた。
何気なく近づき声を掛ける。それだけなのに、三人は動きと思考を止めた。
「どうしたの?」
真っ赤な唇と、魅惑的な肢体から漂う大人の色気は、匂うほど濃厚で、マスターの娘は顔を真っ赤にしてしまった。
カウンターに座る男女の雰囲気から、瞬時に色恋沙汰ではないと判断したママは、機嫌の悪い男<恋人>に視線を向けた。
「いやな、あのお転婆が、確認もせずに店の扉を力任せに開けてな。あの兄ちゃんに当たって、さっきまで気を失ってたんだよ」
マスターの娘はお転婆で有名だった。
いつの間にかママの傍に来ていた女達が「うわ~~運が悪い」と同情する。
「全く。これに懲りたら少しはお転婆を治せ」
「………ごめんなさい」
マスターとママに睨まれ、小さくなった娘に、青年が言葉を返す。
「大丈夫、だから」
若者らしくない、落ち着いた声と口調で、青年は謝罪を受け入れていた。
怒っていないことは明らかだが、マスターの娘はどうも納得出来ていないようだ。
女達は皆、不思議そうにしている。怒っていなければ良いじゃないかと、そんな顔の女達に、マスターは年長者の言葉を聞かせた。
「怒られないっていうのは、時には怒られるより効き目があるもんだ。
ほら、分かっただろ。お前は仕事をしろ」
娘を常連客の方に追い払って、マスターは青年の前にグラスを置いた。
「これは詫びだ」
氷が入ったグラスに、琥珀色の液体を注ぐ。
この店おすすめのその酒は、麦芽の中に甘さの漂う香りと味が特徴で、飲んだ後は甘さがしばらく続き、徐々に消えていく。刺激は強くなく、味に癖も無い。余韻を残しめるお酒として、万人向けだ。
見た目の年齢から、まだ酒に慣れてないと思ったのだろう。
マスターが太鼓判を押す、良い酒である。無茶な飲み方をしなければ悪酔いすることもないだろう。
「ありがとうございます」
白い半そでのシャツと、軍服のようなズボンを着た青年は、マスターにお礼を言い口をつけると「美味しい」と呟いた。
ママは青年の一つ向こうの席に座り、青年と似た酒で、もっとスパイシーなものを頼んでいた。
女達は思い思いにカウンターの席に座り始めた。久しぶりの飲み会だ。ママとマスターの仲を裂くつもりはないが、今日はママを交えて楽しもうと一致団結した。
部外者の青年は席を外す機会が掴めず、流れで同席となった。
左右に美女を従えた青年を、常連客が羨ましいそうに見つめている。
ただ、初対面で部外者の青年が女達の会話に入れるはずもなく。注がれていた酒を、ちびちびと飲むだけだった。
そんな青年に声を掛けたのは、違う席で座っていた、闊達で好奇心旺盛な、店の中で一番若い女だ。
「ねぇお兄さん、彼女いるー?」
元々、あまりお酒に強くない女は、傍目から見ても酔っていた。出来上がりきっている。
「………いえ」
「まだ若そうだもんね、これからこれから、ささ、もっと飲もうー!!」
と、女が注いだのはワインだ。先ほどとは違う口当たりの良さで、青年は注がれるままに飲んだ。
「でね、この子、本当に男運がなくてさー」
青年は喋っておらず、相槌だけなのに、なぜか周りに女が増え、口々に青年に話しかけていた。
表情は見えず、ほんのりと赤みが差したような気がする口元だけが、楽しげな雰囲気を醸し出している。
楽しそうに話を聞いてくれ、相槌を打ってくれる。余計なことは一切言わない。女たちはそれだけで、日ごろの鬱憤が晴れていく思いだった。
ワインが数本開いた頃。
「…………ねぇ、寒くない?」
「ちょっと寒いかな?」
暑いと脱ぎ捨てた女達の上着の下は、露出の高い服で、ふいの寒さに二の腕を擦った。
「女の子なんだから、体を冷やしちゃだめだっていつも言ってるだろ?」
「………え?」
それまで、沈黙を守っていた青年が饒舌に話し始めた。
「ほら、手だってこんなに冷たくなって」
隣に座っていた女の手を取り、擦り、息を吹きかける。
女とは明らかに違う男の両手に覆われ、手にキスをされるのかと思うほど近くで息を掛けられる。生暖かい吐息が、妙にくすぐったく、記憶の中にある過去が呼び出され、女は思わず赤面した。
「だいたい露出が高すぎだ。なんでそんなに手足を出しているんだ。変な男が寄ってきたら大変だろ」
叱るような口調で、それでもマスターに頼んで出してもらった膝掛けを、女の肩に優しく掛ける。
女は言葉をなくし、口を魚のように開閉する。息をしているのかどうかも怪しい。
反対側にいた別に女が、青年の服を引っ張って問う。
「もしかして、酔ってる?」
「よってない。だいたい昔からお前は髪を伸ばしてるわりには手入れが悪い。せっかく綺麗な髪をしているんだから、もっと丁寧にしたら良いのに、もったいない」
やはりどこか叱るような口調で、女の解いた髪を手櫛で直す。手つきは甘ったるいほど丁寧だ。
古今東西、酔ってると聞いて酔ってないと答える酔っぱらいはいない。
酔っぱらいを毎日見ている女達は、青年が完全に酔っている状態であると悟った。
「ねぇお兄さん、私可愛い?」
一人の女が悪乗りをした。しかし「お前はいつも可愛いよ」と砂糖が溶けるほどの声で返され、カウンターに撃沈した。
「ねぇお兄さん、この後どう?」
別の女が青年の片膝の上にお尻を置いた。露骨に誘っている女に青年は……
「どうした? 怖い夢でもみたのか?」
と、頭を撫でた。愛しい者に対する欲のない純粋な好意に、女は崩れ落ちた。
(あれって、酔ってるわよね)
(どうも誰かと間違えてるみたい)
(恋人? にしては変だよね)
(妹っぽくない?)
(酔って妹に間違えてるの?)
(そうとしか考えられないわ)
妹大好き兄貴だ。
彼女達は女であることを前面に押し出して仕事をしている。男受けが良ければ稼ぎが増える。女であることを強調する露出の多い服は稼ぎと繋がるが、そうすると、欲を含む目が多くなる。
それを上手に操るのが女たちの腕なのだが、毎日そんな視線ばかりでは嫌になってくるのも事実。
下心を持たず、べったべたに甘やかしてくれる男。
女達の目が光る。誰かが新しいワインを開け、青年に近づいた。
美女達に接近されても、全員が妹に見えているらしい青年は、全て妹として対処する。
そこに欲は全く無い。あるのは兄としての親愛だけ。
美女集団をはべらしているとしか見えない光景に、常連客は涙した。
その団体の中に、ママが入っていくのを見たマスターは男泣きをした。