第9.4騒 公休日の暗躍
遅めの昼食を食べたナディは、部屋に帰ってすぐに本を片手に廊下へ出た。
久しく満腹で満足だった。
このまま食後の昼寝が出来れば最高だろうと思うが、ここ半年、そんな機会に恵まれた記憶はない。
(食べ過ぎたかな)
昼を食べに寮の食堂へ行ったはいいが、箸が進まず、一番近いパン屋で昼食の食べ直しをしたのだ。休みの日にまで、あの食事は辛過ぎる。
今まで見向きもしなかった一般人向けのパン屋だったのに、パンの美しさに感動した。表面は綺麗な茶色に鮮やかな具、触れると温かく、噛むと柔らかく、挟まれたレタスは瑞々しく、はみ出る肉は大きく、甘めの味付けの中で辛味のスパイスが良く効いていた。
まさか普通のパンにあれほど感動するようになるとは……。
サミエルが実家に帰って母親と食事をしていると思うと、今すぐ本を投げ捨てたくなる。
何が悲しくて公休日まで不味い寮飯を食べなければいけないのか。
作りたての温かい料理をゆっくり食べているサミエルが憎い。
ナディは八つ当たりしそうになる衝動を堪え、これも任務だと自分に言い聞かせた。
階段を下る途中、士官学校時代からの同期と擦れ違う。彼はナディを呼び止めた。
「天使?」
「あぁ。鳥みたいな羽があって、足がついているらしい。大きさは二メートルぐらい」
今日の休みで、どこかから仕入れて来たらしい軍内の噂話を聞かされる。
士官学校出身者は、公休日は卒業生と食べに行くのが慣例だ。
仮隊員というだけあり、新入隊員は軍の内部事情や噂話などから隔離されている。自分から情報を取りに行かなければ、何も分からないまま配属されることになる。暗黙の約束事はどこにでもあるのだ。それを知らないまま入って行くのは、士官学校生の多くが貴族という現状を見れば、好ましくない。
「天使ね………」
こうして互いに見聞きしたことを教え合うのも立派な結束だ。
だが、肝心な情報を話すことは無い。もちろん、ナディもだ。
だから、こうした噂話は、公然の秘密か、面白半分のもの。
ちなみに天使とは、翼をもつ人間のことで、神様達の御使いとも呼ばれている空想上の生き物である。
「天使も銀髪に金目かなぁ」
「………」
ナディは同期に冷ややかな視線を送る。その視線の意味を受け取り、相手が眉を顰めた。
「お前、神経質だぞ」
「君が無神経なんだ」
今年の新入隊員に問題児が一人いる。
指導教官から直々、名指し指名された数人は、その問題児の日常補佐と、問題児に関する情報の秘匿を頼まれていた。一年間、情報と問題児を守ったあかつきには、希望配属先への優先権が約束されている。
ナディと同期の二人は、教官からの指名を受けていた。
秘密を守るのは軍人としては基本なので、二人の常識的で社交的な面を評価されたのだろう。
ちなみにサミエルは指名されていない。
「あいつ、全く遊んだことないらしいから、今日はカモられてるだろうな」
「お給料でも資金だよ。計画的に使わないと。カモにしても、彼、お金持ってるの?」
「最近アイツ、ボタン付けで小銭を稼いでるらしーから」
「………やってたね、そういえば」
「俺はあの問題がなければ、軍人は止めてお針子に行けと言う。なんなら紹介先を斡旋してやっても良いと思っている」
力説する同期は貴族だ。貴族からの紹介というのは、かなり美味しい。
貴族が通うほどの店なら、お針子でも衣食住がついて、一般兵よりも高い給料が支払われるだろう。
そう教えてあげれば、どんな顔をするのかと想像してみるが、多分、口を開けて固まる。
おかしなことだ。目が隠れて表情が全く見えないのに、なぜか感情がだだ漏れなのだ。
口や首の少しの動作だけで感情を読ませるとは、ある意味、高等技術だ。
「あっ、噂をすれば………」
噂の問題児が階段を下りてきた。
階段を飛ぶように降りる。二段飛ばし。体の使い方が上手くなったものだ。軽やかに、速く。しかし、まだ顔を下に向けたまま。足の動きに最大の注意を払っている。まだまだ体を動かすのに手一杯らしい。
「おい、カ――」
同期が声を掛ける間もなく、走り去ってしまった。
たぶん、気付いていない。
後ろ姿を見送りながら、あとは周りに注意を向けれるようになればなぁと考える。
「………………逃げ足が速くなったのは良いことだな、うん」
「教官に注意力散漫だったって告げ口しておく?」
「俺たちが言わなくても分かってるだろ」
「だね。じゃあ、また明日」
「またな」
別れた足で一階の図書室へと入る。
相変わらず埃っぽい。掃除をしようかと何度か考えたが、一年しかいない場所だと思うと、面倒との思いが先に立つ。
持っていた本を本棚に返す。今回も本を返して顔を上げた時に声が掛かった。
「どうだ?」
「フィラットがカラトに接触しました」
「接触するなら人気がない公休日だと思っていたが、そうか、その二人か」
以前、金払いの良い人物と金に困ってそうな人物を報告していたナディは、そのまま監視を任されていた。
監視する人数は徐々に減り、十数人だったのが数人になっていたが、ナディは彼らの行動をずっと注意深く、しかしさり気なく、見なくてはいけなかった。
公休日は特に重要だ。監視対象全員の行動を把握するのは骨が折れるし、場合によっては尾行しなくてはいけない。おかげでナディは入隊してから一度も実家に帰れていない。
サミエルが帰って、自分が帰らないことで、母親がずいぶん不機嫌らしい。父親の方は特に何も言ってこないので、サミエルから話を聞いているのだろう。
(父に母のご機嫌とりは不可能だから、本当にそろそろ一回は帰らないと…)
などと考えていると、いつもはすでに消えているはずの声が続いた。
「ご苦労だったな」
「………ありがとうございます」
はじめて労いの言葉を掛けられた。
驚くと共に、働きを認められ、嬉しかった。
良い情報だったのだろう。公休日を潰した甲斐があった。
ナディは感情を抑えて、冷静に返事を返し、図書室を後にした。
――結局ナディは、この仕事が終わるまで家には帰らず、母親の機嫌を最低にまで下げることになる。
新人が押し込められている寮から部屋に戻ると、見慣れた人物が机に座っていた。
どうしてこいつは椅子に座らないのかと思うが、そういえば背が足りなかったと思い至る。
なぜここにいるかは、もう聞くのも馬鹿らしい。
「規模を拡大して、逆にしぼれてきたな」
「それでも数が多いっすよ」
禿頭の男と二人、街の地図を広げ、取引場所らしき所に検討を付けていた。
背後を取っても無反応だったので、男は後ろから地図を覗き込んだ。自分の持ってる情報よりも精度の高い地図だ。
本当に、どこもかしこも人手不足だ。こんなやつらにこんなことをさせるなんて。
「もう一度いけばだいたいわかるっすけどね。変わりに、顔を覚えられる可能性があるっすから、当日は店の中で待つ方法はとれなくなるっす」
「場所がわかればどうにでもなる。当日の人員はあてに出来ねー。絞るしかないだろう」
「………………」
当日の人員はこちらの部下だ。目の前の二人に部下はいない。
確かに、質が落ちたのは自覚している。しかし、言えば育つものでもない。
この二人が有能過ぎるのだ。というか、お前らの価値観を押し付けるな仕事人間。
「今回は隊長の人脈に感謝っすね」
「この酒の請求書が全部通れば言うことはねーな」
「………………」
今回の仕事で発生した二人の請求書は、こちらの部署の請求書と合わせて上へ申告する形になった。
その前に責任者である自分が確認する。何枚かは撥ねると心に決めているが、概ね通らす予定だ。
内部粛清の場合、使える人員が限れている為、いつもの仕事の倍以上、手間が掛かる。この二人が手伝うのと手伝わないのとでは情報の内容も仕事の速度も全く違ってくる。実の所、大分、助かっていた。
(内部機密を持ち出したやつに感謝する必要があるな)
備品の横流し程度なら、この二人は出張らなかっただろう。内部機密が流出して、初めて動いたのだから。
(それにしても、こいつらはいつまでここに居座る気だ? )
机に居座っているフード姿の相手が、立ったままの男を振り返った。
「おい、珈琲はまだか?」
「帰れ」