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無騒の半音  作者: あっこひゃん
副旋律
50/89

第9.1騒 公休日の楽園

一ヶ月飛ばしてしまった…

 粗い紙のような手触りの、冷たい壁。黒のような緑のような、海藻のような昆虫の甲羅のような、そんな形容しがたい色に変色している二階建ての建物に、看板が掛かっていた。

 昼間には無かった看板だ。

 華奢な花模様で縁取りされた、随分と昔に流行った金属看板。炙ったような独特の色合いは、古い建物と良く似合っている。

 看板に加工された魔法陣でうっすらと浮かび上がらせた文字は、看板が掛かっている建物の店名だろう。『楽園』と描かれている。

 首都シェアラブルにおいて、一般人が通える酒飲み場の中で、高級と言われている店の名前だ。

 対面式の酒飲み場や、食堂と一緒になっている酒飲み場とは違い、煌びやかに着飾った女性の給仕が同じ席に付く。主に男性が足繁く通う店でもある。

 その店の目の前に馬車が止まった。

 実用主義に造られた飾り気の無い馬車から、裕福な身なりをした中年の男が降りたった。

 男は御者と短い会話を交わし、馬車の後ろ姿を見送ってから、視線を上げた。

 アパルトメンが多いなかで珍しいメゾンの建物を眺め、紫に色づいた空を見る。とっくに色を変えた頭上には、星が雲に隠れて点在している。水を含んだ風を感じながら、夏前であることを唐突に思い出す。

 思い出したからといって、変わることはない。

 いつもと変わりない夜空だ。

 男は看板の隣にある、レリーフの掘られた扉に目もくれず、看板の裏手に回った。

 従業員用に見える階段を上がり、通りから見えない所に位置する、何の変哲もない扉を、ごくごく自然に開けた。


「いらっしゃいませ」


 男が扉を閉めると同時に、深紅のドレスに身を包んだ妖艶な美女が男を出迎えた。

 赤い絨毯が敷かれた廊下の上、ドレスの色も相まって、大輪の薔薇のようだ。

 居るだけで目を引かれる。


「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」


 優雅な礼を見せた美女は、真っ赤な指先だけで男の視線を奪った。

 男は頷いた。

 本来なら礼や挨拶の一つも交わす所だろうが、ここで声を上げることは禁止である。

 薄暗い通路だが、足元に魔法を使用した小さな照明があり、歩くのに困ることはない。

 所々で天上から吊らされた繊細な装飾のランタンが行く先の通路に浮かび上がっている。ランタンを通ると、美女の大きく開いた胸元の、真珠の粉が輝く。こぼれんばかりの膨らみが、輝きを伴って男の目に焼き付いた。

 高い位置に結った髪が、歩くたびに揺れる。髪の隙間から覗く華奢な耳飾りも揺れ、自然と、細い首のうなじへと視線が吸い寄せられ、大胆に開いた背中から、括れた腰に流れる。

 いつ見ても、隙の無い極上の美女である。

 一般的な女としての旬は過ぎているだろうに、瑞々しさを滑らかさに変え、若さを思慮に変え、熟成させたワインのような、濃厚で個性のある色気を匂わせる。

 美女の白く細い指がドアノブに手を掛けた。

 ゆっくりと、扉が開く。

 赤い口紅が弧を描き、上品ながらも艶やかな仕草で男を部屋の中へ促した。


「どうぞ」


 案内された部屋は通路と変わらず薄暗かった。

 通路と違うのは、部屋の壁とテーブルに燭台が置かれ、天井にはランタン変わりにシャンデリアが吊られていることだろう。

 部屋の中央に置かれた大きな楕円形の深紅のソファには、先客が足を組んで待っていた。

 若い。細面の青年だ。

 黒のズボンに、黒い上着。形こそ貴族の略式正装に似ているが、刺繍も華美な装飾も省いた服は、最近の流行で、話し合いの席で好まれ始めた服装だ。

 貴族と一般人の垣根は低くなったとはいえ、貴族でない者が貴族の服を着るわけにはいかない。

 かといえど、貴族と同席する席で、素材は良いとはいえ、いかにも平民ですという形の服では侮られてしまう。

 そういう背景もあり、最近、特に良く見かけるようになった服だ。

 その服を違和感なく着こなしている青年は、年の割に場馴れしているのだろう。貴族ではないはずだが、威圧感や雰囲気が一般人とかけ離れていた。

 青年は男が部屋に入り、美女が扉を閉めてから、組んでいた足を直し、ソファから立ち上がった。

 秀麗とまではいかないが、整った顔に、人好きのする笑みを浮かべ、男に手を差し出す。


「やぁ、お待ちしてました」


 足の低い硝子テーブルに置かれていた蒸留酒の、グラスに入っている氷の大きさや水滴から、さして時間は経っていないだろうと、男は推測した。


「いやいや、ずいぶんとお待たせしたようで、申し訳ない」

「少し早く来てしまっただけですので、お気になさらずに」


 余り待たせてないと分かった上で、待たせたことに謝罪を示す。場慣れしているのは男も一緒だ。

 二人は握手を交わす。青年の手は意外と固かった。男の手はもっと固かった。

 見た目だけなら親子ほどの年齢差だろうが、この場に置いて、二人は同等である。

 同時にソファに座り、親しげに語り始めた。


「最近、商売の方は如何ですか?」


 商人である男にとっては、天気の話と同じぐらい日に何度も交わされる挨拶だ。

 返す言葉の多くは「お蔭様で」であるが、男は今回ばかりは、憂いの表情を覗かせ、愚痴ともつかない呟きを語った。


「商品が品薄でね、困っていますよ。相手方のほうも頑張ってくれてはいるんですが、どうもねぇ…」

「そうですか。それは……困りましたね」


 男の取引相手である青年は、最近になって頭角を現した一人だ。

 取引を始めたのも最近だ。金払いは良いが、長く商売をしている男にとって、信用するにはほど遠い若さである。

 しかし、手腕は認めていた。


「ええ。すこし流通ルートを変えようかと思っている所です」

「そうですね。そういうのは早い方が良い。……私がお願いしていたものは?」


 若い、これから勢いで増すであろう青年を前にすると、男は自分が老いたことを自覚する。

 男の力は増すことはないだろう。影響力という点では強くなるかも知れないが。

 青年の、飢えた、隠そうともしない欲を見てしまうと、年を取ったと感慨深くなってしまうほどには、男は年を重ねてしまった。 


「それは安心して下さい。ちゃんと仕入が出来るよう、今、手配しています。」

「それは安心ですね。さすが“漆黒の仲介人”」

「いえいえ、滅相もございません。ただ仕入の際に少々吹っかけられまして、お値段が予定より高くなりますけど…」

「構いません」


 身を乗り出し、金に糸目は付けないと、爛々と瞳を輝かせる様は、子供のようである。

 男は満足して頷いた。


「超完璧主義者のあの方が試作とはいえ合格を出した一品。さぞや素晴らしいものでしょうね」

「そうですね」


 待ちわびる姿に昔を重ね、男は相槌を打ちながら、話を逸らした。


「しかしお若いのに、よくこの場を御存じで」


 一階には酒の相手をする美人がたくさんいるが、二階は、店の主人である美女一人が仕切る特別な空間になっている。

 紹介制の、一般人には存在さえ伏せられている、『楽園』の特別室。

 付き添いすら拒否し、行きも帰りも一人ずつ。決して人とすれ違わないよう配慮に配慮を重ねられた、密会の為の部屋。

 今回、青年が『楽園』を指定してきたのは、男にとって驚きであった。

 『楽園』に部屋を借りることが出来るのは、“あの”美女の信用を勝ち取った一部も者だけなのだ。

 例え青年が懇意にしている誰かからの紹介で、部屋を間貸りした状態であろうとも、男の中で青年は株を上げ、結果、青年の依頼を断らないと決めたのだから。


「良く言われますが、私は見た目ほど若くはないですよ?」


 青年は困ったように笑った。

 男は息子と同じかそれより下に見える青年に、内心首を傾げながら、相槌を打った。


漆黒の仲介人

 決まった顧客にだけ商品を卸す個人商店の店主。

 真面目で堅実、現金主義な死の商人。第二公国の闇取引には大体関わっている。

 リスクの高い人身売買はしないと決めているが、口利きや紹介はする。

 

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