第8.2騒 とある訓練の日の息子と貴族
その日の彼はひどい姿だった。
数日前からの晴天で砂埃の掃除が大変だと、道の端の花壇の側。
愚痴とも世間話とも取れる話をしていた雑貨店の夫人は、その姿を見て目を見開いた。
周りにいた近所の主婦達も、数瞬前の勢いを忘れ、口を開けたまま動きを止めている。
裏口から家へ戻ろうとしていた彼は、見知った顔触ればかりに眉を寄せ。静かに顔を背けた。
泥で視界の悪くなった彼の目の先に、穏やかな季節に終わりを告げる花がさざめいている。
群集している小さな桃色の花を見て、彼の顔は更に顰められた。
幼い笑顔で、はにかみながら挨拶をしてくる彼しか知らない主婦達は、目線で問いかける。
しかし、口を一文字に結び、目を決して合わせようとしない彼には届かない。
母親である夫人を窺うも、彼女が一番驚いているようだ。
片足を引きずり、沼地でも歩いてきたような泥まみれの素足で土の道を歩いてくる息子を凝視している。
三日に一度は必ず着ている焦げ茶色のつなぎ。
そろそろ買い変えようかと、今朝話したばかりのつなぎは、膝のあたりが派手に破れ、血が滲んでいた。
半袖から伸びた腕にも泥と共に、微かに血が付いているようだ。
頭から泥を被ったような。頭も顔も体も、一面が泥だらけ。
昔、泥遊びをして、これぐらい汚して帰って来たことがあった。
その時だってこっぴどく叱って、大泣きしたというのに。
もう彼は泥遊びをして喜ぶ子供ではないのに。
その姿が望んだ姿でないことは、決して顔を合わせない様子や、固く握った手から伝わった。
「一体どうしたの?!」
息子のただならぬ様子に、母親である夫人は目の色を変えて叫んだ。
子供の喧嘩だろうとは思ったが、明らかにこれまでと様子が違う。
周りにいた、買い物帰りの御近所達も、赤ん坊の頃から見知った彼を心配していた。
片足を引きずったまま、彼は裏道で輪になっていた母親達を無視し、家の裏口へ入った。
彼が通り過ぎる。生臭い匂いが鼻についた。
裏口の扉を閉め、彼は溜息を付いた。
この時間にいるだろうとは分かっていたが……。
母親は必ず理由を聞いてくるだろう。近所のおばさん達は情報を集めてそれとなく監視するだろう。
彼は床をふいている雑巾で自分の足を拭いた。
それほど汚れていなかったはずの雑巾が、片足拭いただけで茶色く染まった。
雑巾を裏返し、もう片方も拭く。汚れは取れない。
外で洗って来てからの方が良かったかと、彼は後悔した。
泥遊びから砂場遊びぐらいにはなったかも知れないが、このまま入ると家の中に足跡が残る。
―――気の重くなる話である。
理由を聞かれるのも、言うのも、言われるのも。外に出て洗うことも、足跡が家の中に残るのも。
すべてが煩わしい気がした。
もういいやと、彼は綺麗に掃除された廊下を歩いた。
通った後に残る足跡に、小さな罪悪感が湧く。
湧いた罪悪感は、瞬時に苛立ちに覆われたが、青い壁のシャワー室に入ったら、少し和らいだ気がした。
タイル貼りのシャワー室に入った彼は服を脱ごうとして、思いとどまる。服のままシャワーへと向かった。
本来なら服を脱ぐはずの所を素通りし、青い木の仕切りの向こうへ。
成人男性が立ったまま三人ほど入れる空間。入ってすぐ横の青いタイル壁に白色の丸い魔方陣が描かれている。
魔法陣の上には太めの金属の棒が壁から突き出ていた。
棒には小さな穴が何個も開いていて、魔方陣の縁をなぞる様に指先を円に動かすと、細い温水が穴から降り注いだ。
足元に流れる水は茶色。泥水だ。
泥水は足元に溜まることなく、細長く穴の開いた壁側の床へと流れ落ちる。
「どうして」
排水溝に流れる水と共に、言葉が溶ける。
呟きは小さく、込められた感情は薄い。
「どうして……」
彼は突然、頭を掻き毟った。
砂の感触が指先に当たる。固まった泥が指の動きを塞ぐ。
頭を乱暴に洗っているのか、衝動なのか。
汚れはなかなか落ちきらない。
「どうして!!」
喉から出た叫びは、壁に当たって反響した。
「くそっ!!」
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その日の彼は機嫌が悪かった。
「くそっ! くそっ! くそっ!!」
途切れる息の合間から、怒気を孕んだ言葉が飛び出す。
叩きつける言葉と共に、背中が床に微かに触れ、飛び離れる。
体が動くたびに胸と腹の筋肉が大きく動き、しなやかに一定の動作を刻む。
くそっ! と言う度に体が跳ねる。
「サミエル。いい加減に鬱陶しいんだけど?」
ナディは二段ベッドの上から、床にいるサミエルに顔を向けた。
二段ベッドの床と一段目隙間を支点に、腹筋を鍛えている従兄弟に、愚痴とも呆れとも言えない表情を浮かべて。
ナディの手には分厚い軍法規の本が開かれている。
サミエルが体を動かすたびにベッドが揺れ、分厚い本が手の中でずれていた。
「これしか発散する方法がないんだ! これぐらい我慢しろ!」
両手を頭に置き、斜めに止めた体でナディと目を合わす。
凍傷しそうな青い目に、ナディは諦めた。
確かに、ベッドや机を蹴って、壊すわけにはいかない。これらは備品だ。壊したら罰則と始末書だ。
地団駄を踏むにしても壁や床の薄さが問題になる。隣の笑い声が聞こえるほどだから、蹴ったら確実に穴が開くだろうし、文字通り地団太を踏めば下の階から即座に苦情が来る。
禁煙禁酒、外出も無理となれば、体を動かすのがこの場で出来る健全な、唯一の発散方法だろう。
部屋が広ければ全く問題はなかった。だが、狭い部屋では体を横にする場所すら限られている。
「少しは僕の迷惑も考えてよ。ベッドで本を読んでるのに馬車酔いみたいだよ」
「ここの勉強なんてぬる過ぎる! それすら出来ないあいつには吐き気すらする!!」
「………」
サミエルはずっと機嫌が悪い。
初日に蹴り飛ばした青年に家がないことを、サミエルは噂で知った。「家に帰れ」と言った言葉が、とても彼を傷つけたと理解した。
母親が病弱で、ずっと看護をしていたとも聞いた。サミエルと一緒だ。
違うのは、サミエルには嫌々ながらも頼れた相手がいて、青年にはいなかったこと。
そして、サミエルの母親は生きていて、青年の母親は死んでいること。
一応、謝ろうとしたらしい。
だが、訓練での青年の余りの体力の無さに、主席で士官学校を卒業した従兄弟は堪えられなかったようだ。
おまけに二桁の計算が危うい知能の低さも相まって、そんな相手に謝るという行為が出来なくなった。
自尊心が高いのだ。サミエルは。
しかし罪悪感があるから、完全に無視が出来なくて、結局、気になる子に悪戯をする男子のようになってしまっている。
サミエル本人は全く気付いていないが。
今日は駄目だなと、ナディは本を閉じた。
二段ベッドの上から降り、本を持ったまま部屋を出る。
「どこに行く?」
「図書室」
寮の一階には簡単な図書室がある。
但し、ナディが持っている兵法や軍関係の本しかないので、ほとんど訪れる者はいない。
指導教官の宿泊室の傍なのも避けられている要因だ。
娯楽本があれば利用者は増えるかも知れないが、そんな気遣いはこの先も無いだろう。
(それが好都合なんだけどね)
騒がしい談話室を一番奥に、階段を下りてすぐの部屋へ入る。
相変わらず埃っぽい。そして矢張り、人の気配は無い。
窓がないのでよけいに埃が溜まるのか。灯りをつけないと、何も見えない。
扉の魔法陣をなぞり、部屋の角の灯りがそれぞれ点くと、ようやく書棚が見える。
屋根裏のような雰囲気の小さな図書室は、管理も何も無く。それなりの本が、それなりの数だけ置かれている。
ナディは手の中にある本を返却しようと、一番近くの棚へ足を進めた。
本を所定の位置に返し、さて次はどの本を借りようかと目線を彷徨わせたナディに、声がかかった。
「報告を」
全く姿は見えないが、声だけは届く。さすがに三回目になるとナディも慣れた。
返事を返しながら考える。入った時に気配は感じなかった。
声はどこからだろうか。背後のような気もするし、上のような気もする。
「いくつか派閥が出来てきましたが、今は気になる派閥はありません」
「これからだな。個人では? お前から見て怪しい者はいないか?」
怪しい。と聞かれ、咄嗟に思い出したのは、サミエルが苛立っている相手だ。
前髪の長さが既に怪しいが、軍の中にあって、なぜか目立つ。
「………………」
いる。とも、いない。とも答えないナディに、詰問とも思える低い声が掛かる。
「誰だ?」
「………カラト・カートという人物を、思い浮かべました」
相手からの返答に間が開いた。珍しいと、正直に答えたナディは思った。
「…そいつについては、ある程度こちらも把握している」
もう上にも目をつけられているのかと、ナディはなんとなく納得し、同情した。
「羽振りの良い奴と、金に困ってそうな奴。そいつらを把握して、顔見知りになれ」
「了解です」
「さっきの奴も接触しておけ。情報を引き出せるぐらいには仲を深めろ」
「了解です」
「以上だ」
声はそれっきりだった。
もともと気配もなかったから、本当にいるのかすら、最近は怪しんでいる。
ただ、小さな呟きまで聞こえているようだし、音声として届いて答えるまでの、あるはずの間隔が無い。
(まだまだ未熟だってことかな)
ナディはそう思い、新しい本に手を伸ばし、部屋を後にした。




