第2.4騒 踏まれた日の受付で。
大変おまたせしました。
「カート村のカラトです」
「第四公国のアドルドです」
二人が受付に名を告げる。
毎年、軍には大勢の仮入隊者が入る。今年は100人ほどだろうか。
それを四人の女性軍人が名簿を片手に捌いていく。
名前と部屋の番号を確認するだけの簡単な作業だ。不備がないわけではないが、ここ数年深刻な問題は無く、スペルミスが大半だった。難点は出身地別に書かれている為、人数が少なく知名度の無い地方出身者は探すのに苦労することだ。
「あったわ」
ようやく見つけ出した名前に、探していた女性と、探されていた青年は、共に安堵の息を吐く。
男の方はすでに鍵を渡され、列を外れていた。
仮入隊をする為の書類に青年が名前を書き込む。
細い文体で書かれた最後の一筆の後ろに、鮮やかな赤色が一滴、垂れた。
まるで書簡の印のような位置に吸い込まれた、赤い血。
元々の汚れが酷く分からなかったが、どうやら青年は怪我をしていたらしい。よくよく見ると長袖の肘から下が濃い茶色になっている。力を込めて傷が開いたのか。袖を濡らしている範囲から考えて、相当な出血だろう。
「「………」」
なのになぜだろう。
なぜ当の本人が不思議な顔で自分の腕を眺めているのだろうか。
様子を見ていた男と、血の付いた書類をどうしたものかと思案していた女性は、顔を見合わせた。
まさか、自分の血だと、気付いていない?
そんな馬鹿なと思いながら、男が声を掛けた。
「血が出てるぞ」
「あっ」
((あっ?))
どうやら自分の血だと気付いていなかったらしい。
「君、怪我してるの? 大丈夫?」
事務方とは言え、一通りの訓練を受けている女性も袖に染み込んだ血の汚れに気が付いていた。
しかし、彼女の仕事は今日一日で新人を捌くことである。ここで席を立ち、目の前の青年を治療室に連れて行くと、最悪、時間までに捌ききれない可能性が出てくる。
「大丈夫……です」
「そう。痛かったら我慢しないで治療室に行ってね。場所は適当に誰か捕まえて聞いて」
青年の汚れた服も傷口に悪い。はやく着替えるべきだと判断した彼女は、鍵を手早く渡した。
鍵を手にした二人は、受付の人混みから離れて傷口を確認した。
服が包帯代わりになっていたようだ。血を吸って乾いていた袖を、薄い氷を剥ぐように捲り上げる。
肘の内側から小指の下まで、肌一面に擦れた跡があった。
服を捲ったことで止まっていた血が滲んできているが、男が思うより、大したことのない傷だった。
「傷自体は浅いし、血もすぐに止まりそうだな。消毒と包帯を巻くぐらいの応急処置で大丈夫だぞ」
「けっこう痛い」
当然だろう。
男が大したがないと思っていても、男の基準は戦場。
日常生活では立派な大怪我である。
朝一番で到着した青年が昼前の一番混み合う時間に受付に行こうとしたのも、貧血で倒れ、木の影で仮眠を取っていたせいだ。貧血を起こしていた当人は、寝過ごしたと思って気付いていないが。
「俺も少しなら傷薬をもってる。今は適当な布をあてて、部屋に行って治療しよう」
「えっ? あ、ありがとうございます」
驚き、お礼を言う青年を、なぜだか放っておけない気分になった。
男は、考えた末、手を差し出した。
「俺はアドルド。元傭兵だ」
仮入隊者は、一年の共同生活が義務付られる。
たった一年の付き合いで、深い中になるつもりは、男の中になかった。
例え同室者だろうが、気を使うのは面倒なのだ。
干渉され過ぎるのも嫌だった。
(でも、まぁ、これも何かの縁だ。少し顔見知りになっておくぐらいは良いだろう)
「俺はカラト。元農民」
田舎から出てきたばかりの純朴そうな青年は、男の手を握り返した。
農作業で荒れた青年の指は太く、手は大きく、意外に握力があった。
結論を言えば、このたった一年が、男の人生を変えることになる。
厳密に言えば、この瞬間、男の人生は男の予想から外れた所に足を踏み入れた。
そしてそれは、青年も同じだろう。
男の場合、青年と会わなければ当初の予定通りの人生だ。だが青年の場合、男がいなければどうなったか。
それはきっと誰にも分からない。
声を、掛けた掛けられた、お互いが同室だと判明した二人は、別れることなく、共に部屋に行くことにした。
荷物を取り、いくぞと男が誘った先。
男の荷物より二回り以上もある袋を背負った青年が現れた。
荷物を背負っているというより、荷物に足がついているようだ。
(………よく、ここまで持ってこれたな)
長い間、大事に使ってきたのだろう。
元の袋の形や色や大きさが判別出来ないぐらい継ぎ接ぎされ、なお所々破れた袋からは、なぜか鍋の取っ手や、麺棒のようなものが覗いている。家財道具一式を持ってきたのだろうか?
夜逃げのような荷物に、男がたじろぐ。
いくら同室とはいえ、会って間もない相手から身の上話を聞くのは気が引ける。
それも相手から喋るのではなく、こちらから。
そして男の経験上、極貧が当たり前の世界では、わりと深刻な話が軽い流れで出てくる。
相手が必ずしもそうだろうという訳ではない。しかし、その可能性が高いことは、男の経験上、事実であり、出会っていきなり深刻な話をされるのも困る。
そうなると、当たり障りのない言葉しか出てこない。
「ずいぶんと、大きい荷物だな」
「現金、持ってないから」
(物々交換用か?)
男はつっこみたかった。確かに物々交換は有効ではある。が、なぜここに来てまで?
男は知らない。
現金を全て妹に持たせ、物々交換をしながら兄がここまで来た事など。
そして青年の村では物々交換は日常であり、時には現金より効果があったことなど。
青年は知らない。
物々交換は都会では通用しないことを。だから男が軽く眉を顰めた理由を考えていた。
「「………」」
二人はそれぞれ疑問を抱え、けれどお互いに聞くことはなく。
「まぁ、部屋に行くか」
疑問を飲み込んだ男の促しに、青年は頷いて男の後を着いて行った。