第2.3騒 踏まれた日の青年
――おもしろい話を期待している。
今は無きチームの、仲間であった人生の先輩が、そう送り出す時。
それはまた顔を出せと言う隠語であろう。
おもしろい話は笑える話であり、笑えるということは、楽しんでいるということ。
誰も本当に腹を抱えるほど面白い話を持ってくるとは思っていない。
であるにも関わらず、門出を祝福された男は、その日のうちに約束を叶えることになる。
価値観の違いや個性の違いによる相違が酷過ぎると、それはもはや笑い話にしかなりえないのだ。
男が、その青年を見つけたのは、当然のことだった。。
案内板の通りの道順を辿りながら、建物全体の形を想像したり、すれ違う人の足さばきや筋肉の付き方、動作を確認したり、自分と同じ環境になるだろう相手を観察したり。
洞察力に定評のある男は、直ぐにその青年に気付いた。
長旅だったのだろう。
生地全体がほつれ、ズボンの裾は破れ、全体的に埃っぽい。
身長に対して軽そうな体格である。がりがりではないが、肉が足りている様には見えない。
首元で散切りに切られている黒髪も、なぜか前髪だけは異様に長く、清潔とは言い難い。
はっきり言えば、街で見かける浮浪者と大差ない風体である。
しかしこの場にいるのだから、青年も男と同じ、軍への入隊者だろう。
孤児でも元浮浪者でも貴族でも、入隊は出来る。
(それにしては動く気配がないな)
青年は人の行き来が一際激しい位置にいて、足という存在を忘れたかのように立ち尽くしている。
どこの筋肉も緊張していない、あまりに自然な立ち姿。ゆえに存在が薄れ、何人かがぶつかって行く。
男が青年を見付けてから、十五分過ぎた頃だろう。
ようやく青年が動いた。
片足を動かした姿に、男はなんとなく感動した。
野生動物の、一瞬を見た感動に近い。
(あいつ、動くのか)
そして青年は片足を上げ、重心を前に傾け――
横から来た人の肩に押され、体勢が崩れた所で反対側の体を押され、
真正面を通った人の荷物に押し戻され――
綺麗に元の立ち位置に戻った。
(………………曲芸か?)
狙って出来ることではない。
一瞬のことで、目撃した人物は皆無だっただろう。だが男は目撃した。
立ち尽くす。青年。
その位置に青年の根が張ってしまったのだろうか。
心なしか、薄かった青年の影が更に薄くなったような気がして、男は近寄った。
受付に行きたいということは、もう、十二分に、理解していた。
大きなお世話かも知れないが、今の様子を見る限り、青年が受付に辿りつくのは困難だろう。
辿り付く瞬間を見てみたい気もするが、その道はあまりに険しく、辛く、遠い。
男は青年の傍に寄り、手を肩に置こうとした。
指先が触れるぐらいで、突然、青年の体が傾げた。
男はとっさに肩に置こうとした手で腕を掴み、体を支える。
肩が抜けそうだと、思った以上に痩せて筋肉の無い体に舌打ちした。
「大丈夫か?」
「え?」
抑揚の少ない声が、一瞬の間を置いて返ってきた。
ふっくらとした頬の、幼い印象の顔立ちからは違和感のある喋りで、なぜ自分が倒れたか分からないのだろう、首を傾げている。
「大丈夫か?」
「ありがとうございます」
どうやら肩に異常はないらしい。筋を痛めた様子もない。
青年は礼を言い、「よし」と抑揚の無い声ながら気合を入れて背筋を伸ばした。
また片足を受付に向けて動かす。
また一瞬にして二人にぶつかり、元に位置に戻ってきた。
「…………………」
小刻みに体を震わせている。
哀しいのだろうか。いや、哀しいのだろう。
(なんでこいつはこんなに人にぶつかるんだ?)
笑ってはいけない。決して、決して。
当初の予定通り、男は青年に声を掛けた。
「連れて行ってやろうか?」
青年は言われた意味が分からなかったのか、首を軽く傾げた。
「いや、良かったら、あそこの受付まで一緒にどうだ?」
受付に親指を向けた。
その瞬間、青年の首が激しく、もげそうなほど、縦に振られた。
(喋らないのに、ものすごくわかりやすい奴だな)
それが、男と青年の出会いだった。