第2.2騒 踏まれた日の同室者
入り組んだ海岸線が続くなかに、浜がある。そして浜のすぐ傍に、第二公国の首都“貿易都市シェアラブル”はある。
シェアラブルは石造りや煉瓦の建物が多い。
風が強い土地柄、隙間風が入りやすい木造は敬遠されるのだ。
そんな中で、二階建ての木造の家は目立つ。
とはいえ、表街道からは外れ、地図があっても分かりづらい道順のせいで、そこに木造の建物があることすら知らない人は多い。
そして、看板すら出していないその建物が、宿屋だと知る人はほとんどいない。
「うーーーん」
大きな体躯の男が両腕を伸ばし、欠伸を漏らした。
窓から入る朝日が顔に当たり、眩しさに目を擦る。
針山のような黒髪の精悍な顔つきの男だ。男は床に敷いた布団から身を起こした。
直ぐ傍には木製の頑丈なベッドがあるのだが、ベッドの上にはなぜか荷物が置いてある。
「なかなか慣れないものだな」
男は床に敷いている布団をベッドに戻し、整え、着替え、荷物を片づけていく。
その動作に寝起き特有の気怠さはない。
出発の準備を、ものの五分で終えてしまった。
年季の入った扉の取っ手に、大きな手が掛ける。古い扉は見た目を裏切り、想像以上に滑らかに開いた。
三部屋しかない二階を通り抜け、男は一階へ降りていく。
良く見れば壁も床も階段も、傷だらけだが、丁寧な補修で 一見では跡は分からない。
男が降りる。その階段の音に、下にいる二人が男を振り返った。
「おはよう。今朝は上手く眠れたかしら?」
「おはようさん。飯は机か? 床か?」
一階いた男女――宿屋の夫婦は、朝食の準備をしていた。
「おはようございます。ベッドには今日から寝ます。飯は……テーブルで」
夫婦の質問に男は律儀に返答し、一階に一つしかない、大きな丸いテーブルに座った。
直ぐに白いパンと、色鮮やかな野菜、そして空気がたっぷり入った卵が置かれる。
宿の主人は人の悪い笑みを浮かべ、牛乳をコップに注いだ。
「床で食べられるのも今日で最後だぞ」
「………慣れる為だ」
牛乳を注いだ主人は、同じ内容の料理をさら二人前、テーブルに並べていく。
「お前が軍に入るって聞いた時は、少しばかり驚いたが、まぁお前らしいよ」
「この一週間、街にいる顔見知りに挨拶回りをしてきたが、口を揃えて同じことを言う」
「まぁ、お前は剣の腕よりも、その顔の広さで重宝されていた口だからな」
「物心ついた時には周りが全員傭兵だったからな」
「拗ねるな。ひとっところにいる生活も悪くねーぞ」
男が物心ついた時に傍にいた傭兵の一人は、隣に来た細身の女性を見て微笑んだ。
結婚十年になるのに熱い夫婦である。この一週間で慣れたが、男が覚えているかつての強面からは想像が出来ない。
皺の入った手は明らかな老いを感じさせるが、傭兵という職業に拘らなければ現役だろう。
既にテーブルに座っている男に負けず劣らず、筋肉のついた大きな体躯の主人が向かいに座る。横には主人の横幅の半分しかない穏やかそうな女性。
主人がどうやって女性を口説いたかは、男の仲間の誰も教えてくれなかった。
男はそれがとても気になっている。誰も教えてくれないのなら、自分で調べろということだろう。
これから時間はたくさんあることだし、いつか真相を暴いてやると、男は密かに意気込んだ。
「今日も豊穣の女神に感謝を」
料理を前に食前の祈りを捧げ、男は卵を口に入れた。
牛乳とチーズが合わせられた卵は、柔らかく、深みのある味わいをしていた。
「うまい」
思わず唸る。
その呟きを聞いていた主人が豪快に笑った。
「がははは! そうだろ! 俺の嫁さんは料理上手だからな!
軍の寮に入ったら味覚障害を起こすからな! 今のうちに美味いもんくっとけ!」
軍に正式入隊する為には一年の仮入隊があり、例外なく一年間の寮生活が義務づけられている。
寮は三食がついているが、出される全ての料理は携帯食の野戦料理をはるかに下回るひどい味だと言われている。
愛玩動物に出される食事の方が美味しいと、涙ながらに語った者がいたらしい。
どんな食事でも食べられるようにする為、わざと不味くしているらしいが、改善を上げる声は一切出ない。
自分たちの頃よりも美味しい食事になるなど、許されることではないのだ。
そうした思惑もあり、寮食の改善は見られないまま、巷のおばちゃん達は口を揃える。
将来有望そうな軍人は料理で一年目に釣っとけと。
恐らく最後になる、まともな料理を堪能している男に向かって、思い出したように主人が言う。
「お前、フィートシンボルは持ってるか?」
言われて、男は首を傾げた。
“フィートシンボル”とは組合が発行している能力証明書のようなものである。
個人の技量のみを証明するだけなので、性格は加味されない。
そうは言えど、四公国全てで統一され、組合の名簿は原則公開。犯罪者は即座に除名されるので、信用度は高い。
「軍には必要ないと思うが?」
「軍では意味がなくても、軍以外では意味があるんだよ。持ってて損はない」
「わかった」
男は主人の助言通りに、剣の形を模した銅のネックレスを鞄の底から取り出し、上に入れ直した。
「次にくる時はおもしろい話を期待してるぞ」
拳と拳を軽く打ち交わし、男は頷いた。
放浪の生活は終わり、男にとっては初めての、帰る家のある生活が始まる。