第2.1騒 踏まれた日の踏んだ方
紫のベールが掛かりはじめた空の下。
馬車が二台並列して走れるほどの広い街道。
固められた道の端で、薄暗い周囲に溶け込むように二つの人影があった。
街道にはまだ二人以外の人影は無い。
あともう少しすれば、柔らかな太陽と共に、一番出発の乗り合い馬車が通るのだろう。
人通りのない街道を黙々と歩いていたナディの口から、愚痴ともつかない呟きが漏れる。
「せめてまともな朝食を食べてから出発したかったよ……」
前行く背中にも聞こえるように言うが、聞いていないのか、聞こえないふりをしているのか、サミエルからは謝罪も弁解も無い。
今日は第二公国軍の入隊日だ。
百人規模の人数なので、受付は陽が上ってから夕食前まで続く。
ナディルの屋敷からは、普通に朝食を食べて馬車で出れば、終了の時間までには間に合う。
そこをあえて前泊にしたのは、父親に見送られるのを嫌がったか、母親に後ろ髪を引かれるのを振り切るためか、一番の乗りを目指したいがゆえか。
(全部だろうなぁ)
足元に転がっていた石を全力で蹴り上げたサミエル。
ナディは荒れている弟の姿に、肩を竦めた。
前泊を希望した彼らの誤算。宿が取れなかったのだ。
宿はいつでも空いているという認識を持っていた二人は、宿が取れないとは思いもしていなかった。
断られて、交渉するという手段も思い浮かばず、ただ空いている宿を探した結果、街からかなり外れた宿を取ることになったのだ。
街から外れた宿は、だいたいが兼業で宿屋をしており、祭りや、今回みたいな、人が集まる時だけ開く。
偶に、街を避ける人達用の、“ちょっと”治安がよくない宿もあったりする。
彼らが昨日止まったのは、“ちょっと”治安が良くない宿だった。
宿を取った瞬間に、若くみるからにお貴族様な彼らは、直ぐに絡まれ、特に女顔のサミエルへの絡み方は下品の一言に尽きた。
神経を逆なでされたサミエルは怒り、ふて寝しようとするが、下が煩さすぎて眠れず。
出された夕食には睡眠薬“など”が入っていたり。
安心とは言い難い宿で、朝方か深夜か迷う時間帯、彼らは早々に宿を後にした。
「あの糞餓鬼っ、今度会ったら吊るす!」
「………」
その“ちょっと”治安が良くない宿をすすめてくれたのが、純朴そうな少年だったのだから、世の中は分からない。
宿を探し迷って疲れていたのに熟睡出来ず、ご飯も食べられず、純朴そうな少年に騙され、下品な言葉で絡まれ。
更にはその純朴そうな少年に財布を掏られていたことに、今朝、気付いた。
宿の料金はナディが家からもらったお金で出していたので、その時は気付かなかったのだ。
そんな諸々の事情により、サミエルの機嫌は悪かった。
もちろんナディも機嫌が良いとは言えないが、憤怒の形相で怒るサミエルを見て、冷静になってしまった。
「これだから貧乏人はっ!!」
「………」
道にあるすべてのものに八つ当たりをしながら歩くサミエル。
足元にある石は蹴り上げ、草木は懐刀で斬り。人がいれば辻斬りをしそうなほどの怒り心頭っぷりだ。
周りに人がいなくてよかった。入隊時の武器の所持を禁止してくれて本当に良かった。と、ナディは思った。
大股の早足でサミエルが歩いていたお蔭か、ナディが思うよりも早く街についた。
太陽は曇り空に隠れ、朝霧が街を覆う。天気は良いとは言えないが、大勢の人が集まる日ならば、雨が降らないだけマシだろう。
道中に鬱憤を発散出来たのか、サミエルの様子は落ち着いていた。
弟の背中を見続けているナディは、その落ち着きが表面上のものであると理解していたが。
まさか、本当に、赤の他人に八つ当たりするとは、思っても見なかった。
二人は街の正面入り口をくぐり、石畳みの道を歩く。
丁度、街の中心に噴水がある。噴水を曲がって進むと、一端街を出る形になる。そこから先は軍施設へ続く一本道だ。
まだまだ早い時間帯。市場が開かれるのはもう少し後で、今は市場に広げる品物を倉庫街で見繕っている最中だ。
人気の無い、水の出ていない噴水を曲がり進むと。
――荷物が、二本脚をつけて動いていた。
「「………………」」
いや、体が隠れるほど大きな荷物を背負った誰かが、歩いている。
体が荷物で隠れて、足しか見えなかったので、荷物が歩いているように見えただけだ。
「………」
ズタ袋のようだ。とは、思っても口には出さないナディ。
破れた所を縫い直したり、当て布をつけていたりと補修の跡が随所に見える。なかなか味のある袋だとは思うが、変色して薄くなった生地が痛々しい。
屋敷では雑巾にもしないような襤褸袋は、補修しているのにも関わらず、穴があいて、なにかが突き出ていた。
(………この道を通るってことは、新入隊員、なんだろうね………)
新入隊員の五分の四は一般兵だ。士官学校を卒業したエリートは数が少ない。
士官学校に入るには推薦状とお金はもちろん必要だが、入試もあるので、勉学が出来る環境である貴族の子弟か、高官軍人の子供が多い。
対して一般兵で入るのには、五体満足と健康である以外、資格がいらない。
入れば一年は衣食住付きで、さらに給金が入るので、目の前の、見るからに貧乏そうな人も多く入る。
前を歩いている相手からは、前泊をしていた気配が無い。
汚れた足元は、夜通し歩いたと言われても、納得してしまいそうな雰囲気だった。――浮浪者と言われても納得してしまいそうだが。
初めて見る本物の貧乏人に、ナディの好奇心が疼いた。
それは未知の相手への理解の一歩となるはずであった。が、
ナディの先を歩いていたサミエルが、走ったかと思うと、貧乏人に後ろから飛び蹴りを入れた。
(ちょっとそれはどうかと思うよ、サミエル!!)
石畳の上に、滑るように転んだ相手の横に立ち、頭の上に足まで乗せはじめた。
二日前からの鬱憤がついに人に爆発したようだ。
とは言え、やり過ぎだ。いや、そもそもやってはいけない。
「ちょっとサミエル! 何してるの!?」
蹴って転ばせた相手の頭に靴をのせるサミエルに、ナディは慌てて止めに入る。
見るからに社会的弱者に向かって暴力をふるうのは、ナディの道徳観念では悪だ。
兄が制止するにも関わらず、サミエルは更に靴を捻じりこむ。
「だからやめろってば!!」
ナディは声を張り上げ、弟の肩を掴んだ。
不機嫌で反抗的な青い目が、振り返り睨みを効かす。
(強固に前泊を希望したのはサミエルで、交渉する暇もなく次々宿を変えたのもサミエルで。
家だったら最後に美味しい食事が食べれたのに! こっちも歩いて疲れてお腹も空いたし!!)
自分だけ鬱憤が溜まってるようなその態度に、ナディは切れた。
「いい加減にしろ! 一昨日からのミスは僕たちの責任だろ! 他人を巻き込むな!」
「…っ」
ナディは一呼吸で言い切ると、肩から手を離した。
「それにサミエル。今誰かにこの場を見られたら、女王様って仇名がつくぞ」
「………!!」
己の女顔を自覚しているサミエルは、即座に乗せていた足を引いた。
「「………」」
同じ顔同士で睨みあっていると、踏まれてた男が慌てて立ち上がった。
体以上に大きい荷物を背中に背負っているというのに、よろめく素振りも無い。
立ち上がると、サミエルとナディと同じぐらいの身長だった。
年齢も、同じぐらいだろうか?
癖の無い黒髪が顔の半分を覆っているので、良く分からない。
しかし、蹴られて踏まれたにしては、怒る素振りも無い。
「お前、軍に入るつもりか?」
「………」
返事が無い。なんとなく眠そうな雰囲気に、寝てるのか? とサミエルが訝しむ。
「聞いているのか、お前?」
「何を?」
低い声に、ゆっくりとした喋りで、相手が聞き返す。
マイペースと言える口調が、サミエルの苛立った神経を尖らせる。
「軍に、入るつもりかと、聞いている」
「そうだ」
「帰れ」
サミエルは将来、今日集まる一般兵の上に立つ。士官学校を卒業するということは、そういうことだ。
自分の下に、こんな奴がいるということが、サミエルには我慢ならなかった。
「…帰れよ、お前」
「無理だ」
はっきりとした拒絶に、サミエルの手が相手の胸元に伸びる。
握りこまれる拳を見たナディは叫んだ。
「サミエル!!」
「離せ」
強く、はっきりとした、言葉。と共に、何かがサミエルの頭に当たった。
蓋の開いた空の容器で水面を叩いたような、とても間抜けな音だ。子供のおもちゃのような、愛嬌を誘う音。
「「………」」
よく分からないもので殴られたサミエルと、それが穴の開いたミルク鍋であることを理解したナディ。
固まっている彼らを前に、相手はミルク鍋を器用に荷物の中に仕舞い、歩みを再開していた。
「………………っ! 貧乏人がっ!!」
硬直から解けたサミエルが叫ぶが、相手に聞こえた様子はなかった。