第0.3騒 とある貴族の屋敷にて。
経験的に隠し部屋がありそうな所に目星を立て、さてどんな偽造文書が出てくるかと考えた所で、男は自分の思考を笑った。
職業病だと自覚したのだ。
今日はただ、人を訪ねて来ただけである。
上質の革張りソファに浅く腰掛けていた体を、深く――とはいえど、背中を預けるほどではない――座り直した。
長年、軍人として身に付いた癖は直し難い。
白い、上品なカップも目の前に出されたまま手つかずである。
冷めても香りの良い、一等級の紅茶だ。
紅茶がのせられているのは、ガラスが嵌められたローテーブル。
足元の赤ワイン色の絨毯がはっきり見えるほど、透明度が高い高級品だ。
草色の壁の、視線より少し高い位置には写実的な人物絵画が二点。
誰だかは分からないが、この家は前頭部から禿げていく家系らしい。
部屋の隅には汚れのまったく見えない一体の鈍色の甲冑。
反対側の隅には大ぶりの花が、大きな陶器花瓶に生けられている。
成金趣味は見当たらない。極めて常識的、典型的な、貴族の応接室だ。
だからこそ男は、“つい”余計なことを考えてしまったのだろう。
これから会う人物も、将来、自分と同じような思考を持つのだろうかと、男は柄にもなく飛躍させて口の端だけで笑った時。
男が座っているソファの横の扉が、訪れの合図を出した。
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大きな窓の近くには観葉植物が所狭しと置かれ、それぞれに光を浴びている。
壁は光を反射するようにか、白に少量の黄色を混ぜた色。バラの絵柄の絨毯が、簡易な部屋の雰囲気に華を沿える。
温室かと見まごう、陽だまりのような部屋で、女性と青年が穏やかに語らっていた。
女性はベッドから身を起こし。青年はベッドに腰を下ろして。
二人の間には緩やかな時間が流れていた。
「帰って来たと思ったら、また行ってしまうのね」
淡い色の寝巻に柔らかなショールを巻いた女性が、拗ねたような口調で言う。
しかし、腕を伸ばした先の、頭を撫でる手つきは優しい。
子供扱いを嫌う歳であろう青年は、白く細い手のなすがまま、大人しく撫でられている。
「……申し訳ありません」
青年にとって、その白く細い――細すぎる手は、かけがえのないものだ。
他の者にされようなら罵声付きで殴って沈めるが、その手だけは特別だ。
たとえ青年自身が嫌っている髪であろうと、女性が好いて撫でている間だけは、好きになれそうだった。
「休みの日には、必ず戻ります」
「えぇ、待っているわ。お土産話をたくさん持って帰ってね」
世の女性はすべからず、豊穣と慈愛の女神の祝福を受けている。とは、有名な言葉である。
青年が見上げる先には、どこまでも優しい眼差しの女性。
白すぎるほど白い、その顔に、全てを許すかのようなその瞳に。
青年はいつも、訳もなく、不安と焦りに駆られるのだ。
「行って参ります。母上」
それでも行かなくてはならない。
青年の葛藤は、表情に現れることは無い。
表情よりも雄弁に語る自身の瞳を青年は知らず。
それを知る母親は息子の背中にひっそりと悲哀を落とした。
暖かな部屋から廊下に出た青年は、肌を擦った。
光が入るよう計算された部屋から廊下に出れば、温度差で冷たく感じるのは当然だ。
だが、それにしては温度差が激しい気がした。
――無償の庇護を離れた寂しさだとは、絶対に本人は認めないだろう。
気のせいだと、青年は目を閉じ。開けると、――自分と全く同じ容姿を発見した。
「行かないの?」
廊下の先で問いかけるのは、青年の異母兄である。
対外的には従兄弟で、青年は居候となっているが、なんのことはない。
本妻が養子にするのを嫌がっている愛妾の子である。
「行くに決まってるだろ」
青年と異母兄は同じ年で、産まれも数日しか違わない。
そのことと、未だに当主が女性の元を訪れている事で、本妻は親子を頑なに拒絶している。
「………そう」
母親同士は不仲だが、子供同士はそうでもない。
初めは純粋に遊び相手として。次第に周りが分かってくると、異母兄は疎遠になるどころか異母弟の元へ頻繁に顔を出すようになった。
そのお蔭かどうかは知らないが、親子はメイドや召使や執事に邪険にされることなく暮らしている。
今日の様に、わざわざ別邸まで青年を迎えに来たりと、気遣いが細かい。
屋敷の中の者は二人を兄弟と認めている。
ただでさえ、姿形が似ている上に、そうして気遣う姿が、立派な兄になっているのだ。
そして、その兄の気遣いを鬱陶しがる辺りが、青年を立派に弟に見せていた。
いまも、そう。
「なんでお前までついてくるんだ」
別邸から本邸へと入り、来客室までの間の廊下で。
眉間に皺を寄せて、人を射り殺せそうなほどの目付きの悪さで睨みを利かせている。
血が染み渡ったような絨毯を踏みながら、兄は当然の様に弟に言った。
「君だけじゃあ、心配だからだよ」
同じ顔なのに、変な顔だと、彼は思った。
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「失礼します! サミエル・サーベ、入ります!」
「失礼します! ナディ・マクゴガル、入ります!」
二人の青年が、お手本のような軍式敬礼と共に部屋に入って来た。
軍式敬礼とは、軍人が日常的に使用する敬礼であり、軍に入ると真っ先に覚えさせられる動作だ。
眉のラインと繋ぐように四指を真っ直ぐ揃え、二の腕は胸を張って地面と水平に。
ポイントは、手の形だ。
ただ四指を真っ直ぐにすると親指が突き出てしまうので、隠すように少しだけ手の平と指の関節を曲げることで親指が隠れて直線に見える。
反対側の手は、真っ直ぐにズボンの縫い目に沿って置くのだが、二人はそこまで完璧だった。
「休んでくれ」
「「はっ!!」」
男が“つい”口に出してしまった言葉。
“休め”は姿勢を崩せではなく、敬礼を辞めても良いという隠語だ。
サミエルとナディは足を肩幅に広げ、後ろで手を組んだ。
足を広げる幅も、左手で右手を組む形も、組む位置も。タイミングに至るまで、全て同じだった。
その姿を懐かしみながら顔には出さず、男は続けた。
「今日は内密の要件で来た。それほど畏まる必要は無い」
“つい”軍式になってしまったが、今日の男は軍人として来ていない。
平服を着こみ、家紋の入っていない馬車を借りて。
普通に考えれば、ただの客人のように。そう見えるようにした。
――対外的に。
「座ってくれ」
「「はっ!!」」
畏まる必要は無いと言われても、二人は態度を崩さない。
従順に返事を返し、従う。
若いなと、男は思った。
「要件を伝える前に確認だ」
昔ならとっとと話を進めたが、若さゆえの決断を心配する程度には、男は年を重ねていた。
「ここに来た時点で、了承とみなす。異論は?」
心配ゆえに、確認を取る。有無を言わさせない内容ではあるが、男にすれば、稀な気遣いだ。
「「………」」
返事は無い。
無いが、男は頷いた。
「サミエル・サーベ卒業生、ナディ・マクゴガル卒業生。以上二名は本日付で情報部隊に“仮”入隊とする」
肌を刺すような緊張が部屋に漂った。
「サミエル・サーベ、了解しました」
「ナディ・マクゴガル、了解致しました」
サミエルとナディは士官学校を卒業し、今年から軍に所属する。
初年度は士官学校の卒業生も、一般応募も、同じ訓練内容、同じ共同生活を義務づけられている。
そして、“一年が過ぎてから”各部隊への所属が決まる。
士官学校卒業生はエリートだ。今の軍の高官は、ほぼ卒業生である。
そのネットワークがあるので、士官学校の新人は所属に関する希望が通りやすい。
しかし、希望しても入れない所属が二つだけある。
その一つが“情報部隊”だ。
軍内にある全ての情報を管理していると言われている部隊である。
上がってくる情報の検査と、機密性の高い作戦の実施における現地の調査を主な任務としている。
が、裏の顔として、軍内での違法行為の調査と摘発をも行う。
任務の性質上、軍内で最も嫌われている部隊でもある。
ただし、入れば他の部隊とは比較にならないほどの権限と発言力を得ることが出来る。
「二人には入隊後の一年を一級機密事項該当任務に当たってもらう」
彼らは気付いただろうか。
………――どうやら、気付いたらしい。
男は二人の様子を確認したが、少年特有の激しい喜怒哀楽の揺れは無かった。
いや、一見冷静な青い目に隠れているものの、感情の変化はあった。
その少しの感情を的確に拾って、男は任務を伝えた。
「君たちは、新人の中に紛れ込むであろう、密売人と、その協力者の情報を我々に流せ。もちろん内密だ」
新人達は軍人になる為、一年間、完全な閉鎖空間に身を置く。
そこで軍人としての基礎を叩き込むのだが、如何せん、現職の軍人は接触を禁止されている。
その中で動けるのは、同じ新人しかいない。
そして新人は、“どこの部隊にも所属していない”のだ。
「だからこそ“仮”だ。私は、君たちが優秀だと信じている」
言外に、腕試しだと伝えたのだが、二人はこれも正確に汲み取ったらしい。
良い人材じゃないかと、男は目の前の候補を蹴った人物に言いたくなった。
こちらの挑戦を挑発的に受け取る姿勢も好ましいものだ。
規定通りの短い髪の毛が、アッシュブラウンの色と合わさって、まるで火が燻っているかのようだった。
ナディ・マクゴガル
アッシュブラウン色の髪、青い目。マクゴガル家の跡取り息子。
サミエルのことは手のかかる弟と思っている。
イケメンだが、女顔ではない。
サミエル・サーベ
アッシュブラウン色の髪、青い目。
ナディとは従兄弟になっているが、実は異母兄弟。
元々病弱だった母親を助ける為、父親に助けを求めた。その姿から実子と認められるも、本妻の反対で別棟で暮らしている。
ナディのことは嫌いではないが、兄と認めると父親の息子となるようで拒絶している。父親嫌い。大嫌い。ハゲろ。
女顔なので、よく男に告白され、その度にキレている。
マクゴガル家
そこそこな貴族の家。
厳密に貴族にランクは無いが、格は存在する。
中の上ぐらい。