第35騒 長い一日の、鞄が飛んだ時。
最近の夜は肌寒い。
気が早いものは暖炉で部屋を温めるだろうが、大半は重ね着で凌ぐ時期だ。
しかし、さすがは、夜が本番の酒場。さすがは客商売。
後ろにある暖炉は赤々と燃えていた。
暖炉の熱気が膝下に当たり、すこし熱い。
なのに、膝から上は一向に温かくならない。
腹の底が妙に冷えて、動かそうとした指先は凍りついているかのように固い。
理由はわかっていた。
「その鞄を大人しく渡せ」
風格の漂う軍の先輩が、怒気に似た空気を孕み、少年を睨む。
睨んでいる。それだけだ。
なのに、ついさっき刃物を当たられた時と、同じような恐怖を感じた。
少年と俺は、軍の先輩を正面に置き。
アドルドは軍の先輩の横で。
顔を引き攣らせていた。
(すまん。アドルド)
こめかみに当たる。円状の、硬く、冷たい、鉄の感触。
指導教官実演のもと、人質役に大抜擢された時に味わった。
軍が絶賛開発中の小型銃だ。
耳の上に当たる感触が同じなので、間違いないと思う。
しかし。なぜこの少年がそんな物を持っているのか。
というか、なぜこんなことになってしまったのか。
俺の鞄だと主張したら、捕まって人質っぽくされてしまった。
あまりの早業に、全く体が動かなかった。
「撃てば重罪だ。今なら二、三日の取調べで解放すると約束しよう」
睨む視線は少しも和らげず。
軍の先輩は人垣の一番前で少年を説得する。
態度も言葉も空気も上から目線だ。
(早く鞄を渡した方が良いよ、少年)
良くは分からないが、空気が重い。
目を逸らしたら死んでしまうような、冷たい空気が、軍の先輩から出ている。
(なんでここまでするんだろう)
中身は俺の軍服なのに。
軍服は最初は支給品だが、二度目の申請からお金がかかる。
だから俺にとっては大切なものだ。
(なんでここまでするんだろう)
俺の軍服、なのに。
軍の先輩は少年の様子を観察している。
背後に居る少年からの答えは無い。
代わりに。
「はぁ…はぁ…はぁ」
苦しそうな、浅い呼吸ばかりが耳に届く。
気の弱そうな少年に、軍の先輩の、この空気は辛いだろう。
比べている場合ではないが、俺も、少し、体調が宜しくない。
腹の底の冷えた感覚とは別に、体全体の芯が冷えていく感覚が時間と共に広がっている。
(無事に帰ったら、アドルドの説教だな)
軍の先輩の傍らで、厳しい顔付きで成行きを見守る級友を見た。
目が合うと、物言いたげな雰囲気が漂ってきたので、多分、そういうことだろう。
(体調が悪いから早く降伏してくれ)
例え今をどうにかしても、少年が捕まるのは容易に想像出来る。
暖炉の前に陣取っている時点で、負けは確定だろう。
逃走できる窓も扉も無い。逃げ道の全てに軍人が貼り付いている。
利用出来そうなものは暖炉だけ。
火が燃え上がっている暖炉に入って、煙突まで上ってみるとか。
駄目だな。煙突から抜け出す前に丸焼きだ。
だから早く降伏しろと叫びたい衝動に駆られた時。
「鞄を投げろ!!」
入口に身を拘束されている一団の中から、大きな雄叫びが上がった。
「黙れ!!」
近くにいた軍人が拳を振るう。
動けないよう、うつぶせで体を拘束されている男へと。
容赦も手加減も無く。
(痛い! あれは痛い!!)
思わず威力を我が身で想像してしまい、肩が跳ねた。
後ろから、息を呑む声がする。
床に倒れたまま動かなくなった男を見て動揺したらしい。
大丈夫。あれは気絶しているだけだ。
気絶すれば痛みを感じないので、気絶は早くするのがおすすめだ。
力説しても後ろの少年には伝わらないだろうが。
少年が暴力に全く慣れていないのは、俺ですら分かる。
だから少年の銃が頭に当たっていても、取り乱さず、好機を窺っているのだ。
………下手に動いたら危ないとも思っている。
(専門知識が不要な銃なんて、誰が考えたんだ)
責任者には責任を取ってもらって、人質を替わって欲しい。
「鞄を渡す気はないか?」
軍の先輩は続けた。
背後の騒ぎには、眉一つ動かさなかった。
何が起こったか、意識すらしていないのか。
微動だにしない姿勢と瞳は、なぜか人らしくない、奇妙な感じがした。
「若いのに残念だ」
小さく低い。けれど確かに耳に届いた。判断を下した声。
(………………)
怖くなってきた。
拘束された身で、至近距離にある少年の凶器は、相変わらず怖い。
銃の威力は実演で見た。
なのに。なのに。
目の前にいる軍の先輩の方が、恐ろしい。
冷たくて重くて怖い空気は存在していた。
けれど、今は、恐ろしい。
なんとなくだが。
巻き添えにされそうな気がして来た。
犯人諸共という気配が漂って来た。
「はぁはぁはぁはぁ!」
同様な身の危険を感じ取ったのだろう。
少年の、歯の噛みあわせが外れ、銃口の位置が定まらなくなった。
銃口が、こめこみや、頭、目の下の骨に何度も当たる。
(死ぬのは勘弁してくれ)
妹の結婚式の報告を両親の墓前で酒を飲みながらするまで死ぬわけにはいかない。
名前すら知らない少年と共に死ぬなんて御免だ。
震えて、頬の骨に何度も当たる銃。
細い薪木みたいな銃身を握って、振り向いた。
幼い顔が青ざめて、振りむいた俺を凝視。
同じぐらいの身長。
同じぐらいの顔の高さ。
握った銃を床に向け。
思いっきり。頭を振りかぶった。
「「ぐあっ!」」
石同士がぶつかるような音と同時に、目の奥で光と闇が交互に瞬く。
頭への強い衝撃。
揺れるような感覚。
ふらつく身体で、少年が持つ鞄に手を伸ばした。
思いもよらない反撃で銃を落とした少年は目を細めながらも、鞄は離さなかった。
鞄を死守しようとしてか、背中を向け、懐に抱く。
少年の背中に手を伸ばす。
足を前に出し。踏む。
床に倒れていた酒瓶の上を。
(!?)
もちろん転んだ。
思わず、伸ばした先にあった少年の服を掴んでしまった。
布の破れる音と共に。
『あ』
合唱の出だしのような、幾重もの声が重なった。
巻き添えで少年も転び。
少年の手から。
鞄が飛んだ。
俺達の後ろにあった暖炉の中へ。
炎が燃え盛る暖炉の中に。
綺麗に入った。
『あーー!! !!』
絶叫。
耳をつんざく叫び。
「全員、緊急退避!!」
「逃げろ!!」
一斉に動き出す集団よりも早く。
大きく燃え上がった炎が、一瞬、視界を覆った。