第31騒 長い一日の、鞄を渡した時。
「いらっしゃい」
カウンターの中にいる、黒い蝶ネクタイをしたおじさんが声を上げた。
おじさん。
いつ見ても、格好良い。
目尻の皺がすごく優しそうな雰囲気だ。
身長は低くて細見だけど、とにかく姿勢が良い。
真っ直ぐ立って、グラスをクロスで拭いてる姿は惚れ惚れする。
頬の切り傷も、なんだか男らしくて格好良い。
「カラト」
そうだ、見惚れてる場合ではない。
既に座っているアドルドが、手招きしている。
店の奥の、カウンターでは唯一空いている席だ。
酒を飲むには早い時間帯の割に、客が多い。
椅子は空いているが、テーブルとしては埋まっている店内を見て、盛況だなと感心する。
アドルドの隣に座る。
鞄を、膝の上に置いた。
仄かな違和感。
(ん?)
何か、違う。
考えていると、マスターが移動してきた。
「坊主。前はすまなかったな。うちのお転婆娘がまた迷惑を掛けて」
何も頼んでいないのに、手早く二つ、カクテルがカウンターに置かれた。
柑橘の匂いがするカクテルだ。
「この前の、箒のお詫びだ」
「箒?」
アドルドが目の前に置かれたカクテルと俺を見比べる。
隠すことではない。
実は、と前置きをして話をした。
初めて来た時。
たんこぶを作った所に、店の扉が当たって意識を無くした。
開けたのはマスターの娘さん。
それから、何回かこの店に来ているが。
水を掛けられたり。
ピザが飛んで来たり。
ピッチャーに入ったビールが頭に注がれたり。
前回は。
娘さんが、客がこぼしたゴミを箒で掃いていた。
掃き終わって、新しい客が来て、振り返って。
「頭に、こう、横殴りで殴られた」
俺は、カクテルに刺さっていた棒を取り出して、横に振った。
打ち所が悪くて、その時も気絶した。
「………災難だったな」
毎回だから、ある意味慣れた。
そのおかげで、こうやってマスターのカクテルをただで頂けるのだから。
(………うん)
やっぱり今日もおいしい。
今回も無銭飲食を楽しんでいると、空いた隣の席に、誰かが移動してきた。
「その荷物」
撫でつけられた茶色の髪に、強気な緑の目。
貴族的な顔立ちの男が、鞄を指差した。
(? この人に渡すのかな?)
前は気絶している間に全て終わっていたのだ。
相手を見ていないので、この人が誰かよく分からない。
仕立ての良い、黒いシャツを着ている。
耳とか首とか指に光っている銀色の装飾品。
女性がするには大きくて、ごつい。
(男用の装飾品ってあるんだな)
高そうだ。やっぱり、貴族だろうか。
「フィルダンからだろ?」
フィルダン?
首を傾げると、横のアドルドが耳打ちしてくれた。
(フィラットの兄だ)
なるほど。それなら間違いなさそうだ。
「どうぞ」
「………ああ」
フィラットから預かった鞄を渡した。
男は少し戸惑っていた。
鞄を受け取り。中を見る。
(………………ばれる、かな?)
少し、手に汗をかいてきた。
中には水浸しの書類。
時間が経っているから、乾いていたら嬉しい。
淡い期待だ。
鞄を確認していた男が目を見張った。
(やっぱり駄目だったか)
覚悟を決めた。
そして男は。
カウンターを叩いた。
「この野郎っ!!」
店に響く、突然の音と罵声。
「うわ!!」
「きゃあ!」
瞬間。右腕を捩じ上げられた。
(!!)
体が捻り倒され、カウンターに叩きつけられる。
軋んだ右目。痛みを感じる前に、衝撃。
「がっ!!」
内臓が口から押し出そうなほどの圧迫。
息が詰まった。
頭が揺れ、骨と骨の間に痛みが刺さる。
背中に何かが強烈に圧しかかっている。
重い。痛い。動けない。
(そんなに大事な書類だったなんて)
遠くに感じていた、乱れた声と破壊音が、耳に迫った。
「動くな! こいつの命がどうなってもいいのか!」
なぜか人質になりました。