第16騒 荷物を運ぶ日の、幸せを堪能する時。
(………………へ?)
天井が目に入った。
まさか俺の部屋?
今までのは全て夢だった?
………そんなわけない。
寮の二段ベッドの下で、天井が見えるはずが無い。
慌てて起き上がる。
頭を持ち上げた時、直線的な痛みが脳に突き刺さった。
「ぃつてぇっ!!」
予告の無い襲撃。
浮き上がった体が柔らい布団に沈む。
全身に走る、痺れた痛み。息が上がる。
「はぁ……はぁ……」
寝たまま、体を見下した。
服を着ていない。
衣服の変わりに包帯が巻いてあった。
手も腕も足も脚も体も頭も全部。
ただ。
パンツを穿いていたことに、物凄い安心を感じた。
(って、荷物は?!)
一日中抱えていた荷物の重みがない。
パンツ以上の不安感が押し寄せ、顔から血の気が引く。
痛みを根性で捻じ伏せ、体を動かす。
いたくない。いたくない。いたくない。
………………。
やっぱり痛いィ!!
「大丈夫か」
布団に出戻って悶絶していた所に、低い声が響いた。
拉致してきた男の声ではない。
もっと深い、落ち着いた重低音。
「荷物ならここだ」
渋い声の方に顔を向け。
驚いた。
(え?)
軍服を着ていた。
俺が着ている軍服とは何かが違うが、間違い無い。
見た目は五十代。おじさんだ。
一文字に結ばれた口とか、厳しい目が、貫禄を漂わせている。
白髪混じりの髪を差し引いても、雰囲気的に、指導教官よりも階級が上のような気がする。
(なんで……軍の人が?)
俺は陽気な男に攫われたはずだが…。
まさか。
(助けてくれたのかっ!?)
手当てをしてくれたのが証拠だろう。
そう考えると、ちょっとどころではなく怖い男の後だったので、心の底から安心してしまった。
命は助かったと。
そう思った。
あ。やばい。と思った時には遅い。
目から涙が垂れてきた。大量に。
「………………」
突然決壊した涙腺に、軍人が引いた気配がした。
申し訳ないと思うが、自分ではどうしようもない。
許容範囲を超えた。
怖かったとか、痛かったとか、そういう女の子的なものではなく。
「お腹が、すいた」
――ずっとお腹が空いていた。
だけど、死闘や友情や拉致の間で空腹を感じることは無かった。
緊張が緩んだ瞬間を突き、空腹の波が涙腺を破った。
お腹が空いた。お腹が空いた。と、腹が泣いている。
力の入らない手でさすって宥めてみるが、泣き止む気配は無い。
止まらない涙を垂らしながら、誰にとも無く訴える。
腹が減りすぎても、人は泣けるんだ。
「治まったか」
食事の手を止めた所で、見計らっていたらしい軍の先輩から優しい言葉をもらった。
口調は厳しいが、優しい人なのは間違い無い。
テーブルの向かいに座りながら。
水を足してくれたり、皿を片づけてくれたり、料理をとりやすい位置に置いてくれたり。
食べている間中、甲斐甲斐しくお世話をしてくれたのだ。
(おじいちゃんがいたら、こんな感じかな……)
年齢的に失礼かも知れないが。
(心の中だけだから許してもらおう)
アドルドに続いての救世主に、俺は深く、頭を下げた。
「はい。ありがとうございました。助かりました」
豪快に泣き出したので、大変驚かれた。
申し訳ないと思う。
実は空腹に我慢出来ない体質で、許容範囲を超えると、勝手に涙が出て止まらなくなるのだ。
俺自身や家族は慣れているが、初めての人には驚かれる。
(みんな良く空腹を我慢出来るな……)
あの、切なくて、哀しい感覚。俺は耐えられない。
「いやーびっくりしたっす。来たら泣いてんすから、何泣かしたのかと思ったっす」
漁師姿の軽薄な男が、奥から鍋を持って現れた。
美味しそうな匂いが漂う。
「元はといえば、お前が原因だろう」
「ちょっと手違えただけっす」
鍋ごとテーブルの中心へ置き、陽気だけど怖かった男が椅子に座る。
先輩の横、俺の斜め前。
目の前に体の大きい二人を並べて。
だけど今は、美味しい食事しか目に入らない。
「まだあるっす。たんと食べるっすよ」
「寮の飯は不味い。たまには人間の飯を食え」
「ありがとうございます」
もう一度頭を下げる。
怖いと思った男は、実際にはとても良い人だった。
おいしい料理が作れる人に悪い人はいない。
攫われたが、手当てをしてくれた。ご飯も食べさせてくれている。
何か、理由があるのだろう。
久しぶりに湯気が立つ料理を口にし、攫われて良かったと心から思う。
(この煮込み野菜、おいしい)
熱々の料理を口の中で転がす。「ところで」と声が掛かったのは軍の先輩からだ。
「あの荷物は誰から頼まれた?」
「同期のフィラット、です。でも、フィラットは、軍にいるお兄さんから、頼まれたと、言ってました」
口の中で冷ました、ほどよい固さの幸せを噛み締める。
「中身は見たっすか?」
「見て、ません。鍵が、かかって、いたし、割れ物、入ってない感じで、気にしません、でした」
具から染み出た濃厚な出汁が体を歓喜に包む。
「………荷物を預かっても良いか?」
「はい」
(あぁ……幸せだ)
口の中が温かい。幸せで一杯だ。飲む込むのが惜しい。
堪能して喉に押し込み一息つく。
なぜだか二人から凝視されていた。
(? どうしたんだ?)
「さっきはあんなに嫌がったっすのに」
確かに嫌がったが、あれは物取りだと思ったから。
陽気な男と軍の先輩は、どちらもとても良い人だった。
問題なんてどこにもない。
「今日中に中身が欠けてない状態で酒場まで届けられるなら、俺は大丈夫です」
二人は顔を見合わせた。
目配せをしたようには見えなかった。
だが、向けられたのは、何かを決断した目だった。
「頼みごとがあるっす」
(? なんだろう?)
煮込み料理を新たに口にいれ、首を傾げた。