表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
したい  作者: 彰子
3/3

後篇

「したい」を運んできた男はぼったくり金額を吹きかけ、去って行った。

さて、これからどうすればいいのか……

 幸一はまず、自分の部屋を見回すことにした。窓、机、椅子、壁の時計、真綾タンの「したい」、本棚、遺書、愛読書、ゼミの資料、テキスト、夏物の服、パソコン。三度目の確認。最終確認、という逃避。

 幸一は現実を直視した。

小林真綾の「したい」。

「したい」。

 幸一の眼は、次に時間を確認した。手を打たなければ。午後八時二十分。両親は九時ごろに帰ってくる。メールを打つ。

「遊びに行きます。車、使います。明日は土曜だから、結構遊んじゃうかも。じゃあね」

 手が震える。その手で車の鍵をとる。駐車場に向かう。早く真綾タンを運ばなければ。なぜ。捨てる。捨てるためだ。俺が真綾タンを捨てる? ウィトゲンシュタイン。

 幸一は「したい」を抱えた。リンゴ三個分。公式ブログの数字。

驚くほど軽い。腕がつりそうなくらいの軽さだ。

 ガレージを開ける。車のドアを開ける。幸一は何か開けてはいけないものを開けているような気分になった。

 助手席に「したい」を乗せる。なんでここにいるんだよ、真綾タン。

警察に行くべきだと幸一はふと常識的なことを考えた。

 で、警察に行ってどうするんだ、と思い直す。写真集を買おうとしたら死体を渡されました。これがその死体です。

 ……あの老人はどうして逮捕されないのだろう。客は、

『だいたい私と同じくらいの年齢の金持ちが多いけどね』

 二千万円が相場の「したい」を買おうと思う、変態の権力者。ドラマの設定なら、もみ消しくらい容易にできるだろう。……いや、もみ消すことができるから、真綾タンがいなくなっても、それほど騒がないのか。

 ……俺がやったことになるのか?

 幸一は警察の言いそうなことを想像してみた。

 写真集を買おうとしたら死体を渡された? お前、どうかしたのか。精神病を装うつもりならやめておけよ。それとも本当に現実と虚構を区別できなくなったのか。

 どうすればいいんだよ、真綾タン。幸一はこれまでの習慣に従って、心の真綾タンに尋ねてみた。そして、実際の真綾タンは死んでおり、まさにそれが悩みだったということに気がついた。

 幸一は頭をかいた。そして、とりあえず全力で陽気にふるまうことに心を決めた。

 よおぉし、「したい」とレッツ・ドライブだ。

 ドライブにはなんといってもFMでしょ。幸一の手がカーナビを操作すると、陽気なアナウンスが流れ始めた。

「金曜の夜を華麗に演出する、ラジオ葉っぱがお送りしています」

 とりあえず、幸一は車を国道沿いに走らせてみた。車内は軽やかな洋楽が流れている。幸一の隣には、魂の抜けた小林真綾が目をつむったまま座っている。

 一時間ほど夜のドライブを続けて、信号で止まった時だった。真綾の首に何かが掛っていることに幸一は気がついた。ネックレスではない。ネームタグのようなものだ。しかし、名前の代わりに、次の文字が打ち出されていた。

「作品の概略及び材料採取経緯」

コンビニに車を止める。ネームタグに入った小さな紙を抜き出す。広げてみると、細かな字がずっと印字されている。

 製品の概略は、老人の言ったことを事細かに説明してあるだけであった。

耐久期間:約二百年、関節可動、メンテナンス、特に必要なし、水洗可能(週に二~三回行うことをお勧めします)。特に目的がなければ、刃物などの傷がつかないように注意してください。

 材料採取経緯:材料当人からの志願。

「志願?」

 真綾タン自ら、ということなのか。そんな子ではないことぐらい、俺が一番知っている。

幸一は詳細の部分に目を通した。

 どうやら昨日の午後、彼女は材料にされたようだった。

 彼女が訪れたのは木曜日の午後九時。彼女が自分の写真集をベストポジションに置いてくれるよう、自主的に書店を回っている時間帯だったはず(ブログより)。その時間に、彼女はあの店で材料に……。……? 詳細の書かれた横の余白に、細かく走り書きされた文字があった。

「材料の意向:何度も死体のことを依頼」

 おそらく、老人の文字だろう。どういう意味なのか。

……死体……したい。材料の言葉。幸一ははっとした。

 どうやら彼女は俺と同じ過ちを犯したようだ。不用意にあの店主の前で「したい」と言ってはいけなかったのだ。

「『したい』をよろしくお願いしますっ」

 おそらく、こんなことを彼女は言ってしまったのだろう。彼女も少し舌足らずのところがあった。

 幸一はさらに想像を膨らませた。

 店主はいつもながら勘違いした。そして、彼女を店の奥に連れて行った。老人は自慢のコレクションを見せてニカリとする。どうだい。作品だろう?

 そこで、こんなやりとりがあったのだろう。幸一は毎日のルーティーンである真綾タンの声の想起を始めた。

「で、どれにするんだい」

「ち、違うんです。そういうことではないんです」

「じゃあ、どういうことなんだい」

「とにかく、『したい』をお願いします」

「お願いって……」

「お願いします。『したい』をお願いします。お願いします」

 彼女は泣いていただろう。今日の俺がそうだったように、本来の目的以外を考えまいとして、必死だったろう。

「なるほどね」

と老人はひとりごち、その必死の訴えを自殺志願の少女の依頼と受け取った。

 そして、彼女は材料になったわけだ。

 彼女は店主の勘違いで殺された。

 ばかげている。でも俺は冷静だ。

 コンビニへ入った。

 彼の求めていた小林真綾の「したい」が置いてあった。

「うん、普通の出来栄えだね」

 幸一は思わず感想を口にしながらレジに写真集を置いた。店員は不審そうな顔で幸一を見た。

『うん、この対応も普通。夜のコンビニで独り言をいう男には、こんな対応をしてしかるべきだ』

 そして、助手席で眠る小林真綾が起きてくればいい。

あるいは、その姿が消え去っていてくれているほうが現実的だと幸一は思う。小林真綾が俺とドライブに行き、その間に疲れて眠ってしまって、はっと起きあがって、

「ねえ、次はどこに行くの」

と俺に尋ねるなんていうことはありえない。ありえないんだ。

 幸一はコンビニから車に帰るまでの間の距離にデジャビュを覚えた。あの店から家に帰るまでの間に思ったことと同じだ。今日のことは夢だと確認できるような何かを求めていた。車のドアを開くまでの間に、そんなものがあればいいと思った。でも分かっていたのだ。家からあの本屋までの距離と、コンビニの玄関からその駐車場に止めてある緑色の軽自動車の扉までの距離。どちらが短いのかなんて、分かり切っている。そんなものは見つかるはずがない。

 FMはいつの間にか洋楽番組から邦楽ロックの番組へと変わっていた。サンボマスターが流れている。

 結構好きなんだよな、サンボマスター。ボーカルの名前が同じだから、どうしても気になっちゃうんだ。小林も結構ある名前だよね。そういうのってない? あ、ないか。自分が芸能人だもんね。

幸一の頭に、エレキギターとドラムの音が響く。

「昨日のあーなーたがぁ うそだといぃうのならぁ 昨日のけーしきをぉ 捨てちまぁうだけだ」

 捨てちまぁうだけだ。

 俺が小林真綾を、どこかの山林に「捨てちまぁうだけだ」。

「あたらしー日々をつなぐのは あたらしー君と僕なのさ」

 小林真綾。山口幸一はあなたのファンでした。

 でもあたらしー日々においては、あたらしーあなたは「したい」であり、あたらしー山口幸一はそれを捨てにドライブに出かける男です。

「ぼくらーなぜか 確かーめあう」

 現実かどうかを? こんなあたらしー関係を?

「世界じゃそれを愛と呼ぶんだぜぇ」

 ……。

「心の声をつなぐのがぁ これほど怖いものだとわぁ 君とー僕が 声をーあわすぅ 今まーでぇの過去なんて なかったかのようにぃ歌いだすんだぁ」

 短めの間奏。でもその間に、幸一は心の中の真綾に語りかけた。

 なんで「したい」なんてタイトルを写真集につけちゃったわけ? 事務所の意向? 君はどう思ったの。どこかのエッチな大学生がタイトルに惹かれてほいほい買っていくと思った? そして喜ぶと。それが「したい」ことなわけ? そうやって性の対象として見られることが君の本当に「したい」と思っていたことなわけ? 違うよね。こんなところで終っていいはずがない。しかも、ボケた殺人鬼の勘違いなんかで。

幸一はアクセルを少し強めに踏み込みながら、心の中で話しかけ続ける。

「僕らはいずれ誰かを 疑っちまうからぁ せめて今だけ 美しい歌を歌うのさぁ」

 …前に真綾タン言ってたよね。ライフセーバーの映画の宣伝が流れたときに。

「あたしもいつかこんな映画に出たいです」

 でもさ、それって嘘だよね。分かるんだよ。映画に出たいわけじゃないって俺には分かったんだ。その映画の宣伝でさ、主人公が高校生のときに海辺を走る姿がずっと使われていたよね。それ、したかったんじゃない? そうだよね。映画女優とか、そういうのが夢なんじゃなくて。ブログでもずっと海のことばっかり。君はさ、海辺を走りたかったんだよ。それを仕事にしたかったんだ。でも、なまじっか器量がよかったから、ライフセーバーとかプールの監視員とか、そういう仕事に就くための能力をこれまで習得してこなかった。でも、やっぱり海で走る仕事がしたかったんだ。そのときはまだブログも見てなかったんだけど、分かったんだよね。それで、俺、ファンになっちゃった。君が海辺で走っているところを見たら、さぞ気分がいいだろうなって思ったんだ。それだけのことか、って思うかもしれない。でも、俺にとってはそれが大切だったんだ。大学から先の未来を描けない大学生にとっては、それが大切だったんだよ。

「かなしいことーばではぁ オイエイ 何も変わらないんだぜぇ やつらが何をしたっていうんだぁ」

 君が何をしたっていうんだ。僕は何か間違ったことをしたかもしれない。でも、君は何をしたっていうんだ。あるいは、君の事務所の人たちが何をしたっていうんだ。君の両親が何をしたっていうんだ。君の友達が何をしたっていうんだ。何もしていない。プラスでもマイナスでもない、現実。そのまま終わっていいはずがない。

「昨日のあーなーたが 裏切りーの人ならぁ 昨日のけーしきをぉ 忘れちまぁうだけだ」

 アクセルを踏む。軽自動車は窓に景色を映しては、忘れていく。ギターとドラムの音。浜辺に向かう。

 午前零時。三時間も走り続けた幸一の顔には、疲労が浮かんでいた。もちろん、運転だけが疲労の原因ではない。

 ブレーキ。パーキング。ドアを開ける。シートベルトをはずす。砂利を踏む。彼女の隣のドアを外からあける。

 彼女の「したい」は眼をつむったまま、引きずり出された。

 幸一は砂の上に彼女を座らせ、自分もその横に座ってみた。

 真綾の「したい」は、もしかしたら生きているんじゃなかろうか。横顔を見ながら、幸一はこれが一般人をひっかけるドッキリ番組の可能性に賭けてみる。

 走ってみてよ、と幸一は心の中で話しかける。これがもしドッキリかなにかで、真綾タンが生きているなら、走ってみてよ。走れよ。走れったら。今まで走ってきただろう? 今走らなくてどうするんだよ。走るんだよ。走れ。走れ。俺の存在なんか無視して、走れ。生命の法則なんか無視して走っちまえ。人間をまるで人形みたいにしてしまうあの爺さんがしたい放題して、それで真綾タンが死んでしまったら、爺さんが真綾タンに何かしたってことになるだろうが。あいつが何をしたっていうんだよ。何をしたっていうんだ!

「新しい日々を変えるのはぁ いじらしい程の愛なのさぁ 僕らそれを確かーめ合うぅ 世界じゃそれも愛と呼ぶんだぜぇ」

「もう、いいんだよ」

 幸一の頭の中に、真綾タンの声が響いた。

 幻聴だろうか。なんなんだろうか。ああ、俺はどうかしちまったんだろうか。何をしたっていうんだ! 幸一は浜辺を走った。

 意味がないんだぜ。俺が走っても意味ないんだぜ。俺が走っても、俺は君じゃないだろう。君が生きて走らなきゃ、意味がないんだぜ。何がいいっていうんだよ。よくないだろ。全然よくない。走れよ。走れったら。小林真綾。本名はファンに明かしてないけど、とりあえず小林真綾。あんたが走るべきなんだ。走れ。意味ないんだぜ。走れよ。全然よくないよ。生きるべきだよ。君は生きるべきだったんだよ。

「あなたも走るべきなんじゃないの」

 そうだよ。俺だって走るよ。でも、君が走るところを俺は見たかったんだよ。こんな夜じゃなくて、明るい日差しを浴びて全力で走る君が見たかった。俺だって走るさ。走ってやるよ。でもここにあるのはそんな問題じゃない。

「そんな問題じゃないの?」

 俺は走ってるだろ。……走ってないように見えるかい? 走っているとも。

「じゃあ、あれは……どうして書いたの」

 ……捨てる。捨ててやるさ。

「そう。なら安心ね」

 安心さ。だから、走れよ。

 幸一は泣いていた。泣きながら走っていた。

「悲しみで花が咲くものか」

 彼女のソプラノが幸一の頭の中で響いた。


 午前六時。幸一はガレージに車を納めた。家に帰ると、まず部屋を見回した。窓、机、椅子、壁の時計、さっき机に置いたばかりの写真集のほうの「したい」、本棚、遺書、愛読書、ゼミの資料、テキスト、夏物の服、パソコン。

 逃避はしない。

 遺書。気まぐれで書いた遺書。そのときは本気で書いたつもりだったが、あの程度の気持ちは、今なら気まぐれだと言える。先が見えないから、死のうとしただけの気まぐれ。

 手に取る。破る。ゴミ箱に入れる。

 窓を開けた。今朝の新聞を広げた。彼女のことは出ていない。失踪したことすら、掲載していない。幸一は捕まってもいいと考える。「したい」を置いてきたことは罪に問われるだろう。でも、それくらいは受けて立つ。問題は、海岸にある人影が「したい」だと、海辺の住民が気づくのにどれだけかかるかということ。そして老人が罪に問われる日は来るのかということ。まだ、わからない。

 朝日が差し込んできた。

「幸一、ごはんできたわよ」

 はあーい。

 頭の中でサンボマスターが叫ぶ。

「あーいとー へーいわー」

 真綾タン、俺、走るよ。君は走るべきだったけれど、そして君が走るべきであったことと俺がこれから走ることは何の関係もないけれど、走るから。

「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」

 走り切るから。


fin

ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございます

また勢いで書いたら終わってしまった……

ご感想等を送っていただけたら幸いです

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ