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したい  作者: 彰子
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中篇

幸一は真綾タンのきわどい写真集「したい」を買いに来たはずだった…しかし本屋の老人が見せたのはしたい…死体…死体? 本当に死んでいるのか?

「私はね、処理が楽しいんだよ。材料を手に入れることは好きでないし、実は君のように作品のファンでもないんだ。確かに一種の芸術ではある。人間という体から、命だけを抜き取ったようにすると、まるで切り絵のように、その体という枠が命をより明確にあらわすようでさ」

まったくもってウィトゲンシュタイン。

「だけどそれよりも、私は処理が楽しいんだ。死んでいる体をどれだけ生きているときの体の状態に近づけるか、その状態をどこまで継続させることができるか。いつも挑戦さ。材料入手から素早く処理に移らなければいけないのは当然なんだけど、それだけじゃないんだ。いろいろ試したけどね、最近やっと完璧に近い処理ができるようになった。……この作品は腐らないし、触感も生きているときと同じだよ。関節を曲げても大丈夫だし……で、他のやつも見るかい」

「いいえ」

「そう。けっこう良い作品もあるよ。本当に見ないのかい。……じゃあ、この作品でいいんだね?」

 しばしの沈黙があった。

 俺が小林真綾の「したい」を所有するということなのか。

「少し待ってくれれば、新しい材料が入るよ」

 材料が入る。……つまり、殺される? 誰かが? 俺が?

 幸一の目線は小林真綾の「したい」に向けられていた。

「これ、ください」

 幸一は歯の根が合わない口でそう言った。

「君はこれで何をするの?」

「見ているだけです」

 いや、何をするも何も、考えていない。ただ今は真綾の「したい」を見ているという事実があるだけだ。俺は殺していない。俺は、…生きている…ような小林真綾の死…体…を、…見て…いるだけだ。

 幸一は自分の状況を確認する独り言が老人の質問に対する答えになりうることなど気づきもしなかった。

「変わっているね。……でも、ありがたい。よいしょっと」

 老人は小林真綾の「したい」を部屋の片隅にある椅子に腰かけさせた。老人は丈夫な体をしているようだった。

「他に買っていった人の中にはね、作品の体を無茶苦茶にする人が多い。というより、そんな人ばっかりだ。だいたい私と同じくらいの年齢の金持ちが多いけどね。ただ作品を作る過程が好きというだけで材料を手に入れてくる私が言うことではないけれど、その材料の尊厳が考えられていないんだ。……君、今どれくらいお金があるの?」

 変わっている? お金。そうだ、写真集を買いに来たんだ。購入代金。お金は払わなければ。

「三万円あります」

「ちょうどいい。それ、出してくれるかな。ああ、小銭はいいからね」

 老人は懐から財布を取り出した。そして、幸一の手元にある三枚の紙幣のうちの二枚を抜き取り、財布の中に収めた。

「本当はこれの千倍からが相場だよ。でも、今日は特別サービスだ。君のような、若い『ファン』の人に会いたかったからね。……私も若い頃からこうだったものでね。だから、今日のような日には、誰にも理解されない感覚から救われたようになる。気にすることはないよ。他の金持ちがしっかり弾んでくれるからね」

「ありがとうございます」

「運び屋を手配しとくからね」

「はい」

 運び屋?

「じゃあ、店のほうで本でも買っていくかい」

「いいえ、帰ります」

 そんな気分じゃない。俺は写真集を買いに来たんだ。

「そう。……あのさ、聞きたいんだけど」

「なんですか」

「君の『死体』の発音、変わっているね。……いや、別にどうってことはないけれどさ、『なになにしたい』の『したい』に似ているなって思ったんだよね」

 老人が誤解に気づき始めている。真綾の…ファンとしては、……どうせ殺されるのだから、訂正したほうがいいのだろうか。……それとも、やっぱりごまかして生き延びる可能性に賭けたほうがいいのだろうか。ごまかすべきだろう。でもどんなふうに?

 幸一の精神は逡巡していた。

「『したい』っていう写真集があるんですよ」

 幸一の口は滑らかに動いた。この数分で芽生えた老人に対する服従の態度が生んだ結果だった。オウンゴール。後悔先に立たず。

「へええ、そうなんだ」

 老人は普通の笑顔を見せた。意味が分からないようだった。あるいは、自分の声があまり聞こえていなかったと考えたようだった。

「悪いね、ひきとめて。作品は運び屋から受け取ってくれ」

 この店から、出てもいいのか?

「はい……それでは」

「ああ、さよなら」

 幸一は店の玄関から駅へ向かった。一駅くらいなら歩くべきなのかもしれない。わからない。ウィトゲンシュタインだらけだ。電車に乗った。人に会いたかった。通りすがりの物言わぬ人々に会って、自分が日常の中にあるということを確認したかった。さっきのは夢だと確認できるような何かを求めていた。家に帰るまでの道で、そんなものがあればいいと思った。残念ながら、そんなものは一つも見つからなかった。

 幸一は家のドアを開けた。床に倒れてみる。家に帰ってきた。帰ってきたんだ。

 固めのじゅうたんに突っ伏しながら、幸一は今日の出来事を振り返ってみた。

 …大学を出るまでは、いたって普通の日だったはずだ。講義、ゼミ、予習、友人の原田と軽食兼雑談、バスケサークルで軽くシュート練習。それで? 大学を出てから、俺はいったい何をしていたんだ? ああ、そうだ。真綾タンの「したい」を買いに行った。一つ目の書店では見つからなかった。小林はなくて、小早川と小宮山しかなかった。二つ目の書店では、コナコをワ行の段に並べて悦に入った。三店目は、あの爺さんの店だ。そして、「したい」を見た。写真集ではない「したい」。二万円を払ってそれを買った……? そんなばかな。

 もっと冷静に考える必要がある、と幸一は自分に言い聞かせた。

 なぜ駅前の本屋に小林真綾の死体がなければならないのか。なぜ小林真綾がさびれた本屋で死ななければならないのか。なぜ真綾タンがあの店で死体となって俺に発見されなければならないのか。……もっと冷静に考える必要がある。

 あの店の爺さんは材料、という言葉を使っていた。材料は自分で採取するようなことも言っていたな。

『私はね、処理が楽しいんだよ』

 材料を処理して作品にする。作品。生きているような人間の死体のこと……。

 で、材料は? 生きている人間……? 採取、生きている人間を採取する。……冷静に考えることが必要。

 いや、俺は冷静だ。あの爺さんは人間を採取、つまり殺害して、その死体を加工して、まるで生きているかのようにするのが、

『楽しいんだよ』

 冷静に考えろ。人間を採取する? 違うだろう。何かゴムとか人工皮膚を、材料と呼んでいるんだろう。それで、人間そっくりな人形を作っているんだ。

 いや、俺は冷静だ。あれが人形に見えたか? あの爺さんは人殺しなんだよ。殺した人間の体に処理を施して、生前の姿に近づける。そして、それを作品と称して、二千万程度で変態に売りつける。そうやって生計を立てているんだよ。

 冷静に考えろ。そんなことがありうるのか。殺人鬼があんなに呑気な様子で……。

 チャイムの音。間延びしたチャイムの音。一度、二度。

 ドアを開ける。陽気そうな男が立っている。

「こんにちは。注文の品をお届けにあがりました」

「どうも」

 手押し車に乗せられた黒い箱。

 人一人が入るくらい、大きな黒い箱。

「ヤマグチコウイチさま、でよろしいですね」

 幸一の疑念がまた一つ増えた。

 どうして俺の名前と住所を知っているんだ?

「商品をご確認ください」

 箱の上の部分が開く。小林真綾の顔。俺は冷静だ、と幸一は頭の中で唱える。

「よろしいですね」

「はい」

「作品を奥まで運びましょうか」

「お願いします」

 たしかに黒い箱を運んできていても、この人間ならば不自然ではないと幸一は思った。それはきっと、仕事然としているからだろう。陽気な顔をしたこの男の運ぶものが、誰も「したい」だとは思わないはずだ。きっとどこかのイベントに使う機材を運んでいるのだと、通り過ぎる人は思ったことだろう。それどころか、中身を見ても「したい」だとは思わないかもしれない。いや、おそらくイベントに使う人形か何かだと思うに違いない。この男の顔は、およそ死と結びつかない。

 幸一は「したい」を抱える彼の横顔を見つめた。「したい」を運ぶという仕事に、誇りを感じている。彼にうってつけの仕事なのだ。

「これで、失礼いたします」

 幸一にサインをもらった男はにっこりと笑った。

「あの」

 何を話すべきなのか。幸一と男の間の沈黙。またか、と幸一は思った。

「お困りですか」

 男は笑顔のまま、尋ねてきた。

「あの店主も困ったものです。あなた、彼の勘違いに巻き込まれて、この作品を買うことになったのでしょう」

「どうして分かるんですか」

「ただの勘ですよ。店主とは長いですからね。まあ、その勘違いであなたは助かったわけですが。彼の仕事を知っているのは、私たち運び屋と、お客と、材料だけですからね。なんの手違いか私には見当がつきませんが、とにかく欲しくもない死体をあなたは買ってしまった。顔にそう書いてありますよ。それで、この作品が届くまでは、夢か何かだと思いこもうとした。でも、これが現実です。あなたがこの作品の所有者です」

「どうすれば……」

「さあ? 好きにすればいいでしょう。それとも私がしかるべき場所に運びましょうか。一分千円でやっています」

 時給六万円。

「三日かかります。四百三十二万円。あなた、見かけによらず金持なのでしょう。二千万……この作品だと、五千万は下らないと思いますが」

 そんな金、払えるわけがないという顔を自分はしていたのだろうと幸一は思った。いや、もともと金に縁のない顔なのだと幸一は思いなおした。

「では、失礼いたします」

 男が扉の向こうに消えた。


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