前篇
幸一はまず、自分の部屋を見回すことにした。窓、机、椅子、壁の時計、真綾タンの「したい」、本棚、遺書、愛読書、ゼミの資料、テキスト、夏物の服、パソコン。
パソコン、夏物の服、テキスト、ゼミの資料、愛読書、遺書、本棚、真綾タンの「したい」、壁の時計、椅子……。
「逃避とは防衛機制の一種である」
そう、そして逃避をしても問題の解決にはならない。担当教授の一般教養での授業の言葉を幸一は頭に浮かべた。
幸一は現実を直視した。
真綾というアイドルの「したい」。
「したい」。
「たしかに俺は『したい』を買いに行った」
そして今、自分の部屋には「したい」がある。何の問題が?
逃避。役に立たない防衛機制。やれやれ。
幸一が買い求めた「したい」とはここで横たわっているグラビアアイドルのファースト写真集のタイトルである。そして、この部屋にある「したい」とは死んだ人間の体のことでもある。「死体」と書く。「死体」は日本において荼毘に付されるのが一般的である。しかるべき手続きを踏んで、生前のゆかりある人々に見送られた後、高熱の炉でリン酸カルシウムにされるのである。最近では骨に高圧をかけて宝石に変える場合もあるが、たいていはしかるべき場所に埋葬される。死体に対するこの一連の儀式を葬式という。一部の学者によれば、葬式(特に埋葬)は、人が「悲しみ」という感情を生存競争とは関連しない形で表現した点で精神文化のはじまりとも考えられている。
逃避。以下同文。
幸一が心の中でこのように何度も逃走を試みる二時間ほど前、彼はうきうきした足取りで大学から立ち去り、乗換駅の改札をくぐって、都心の大型書店へと向かっていた。
『べ、別に好きなアイドルの写真集が出るから浮足立ってるんじゃないからね。ほ、ほんとなんだから』
誰に聞かれるともなく、こんなツンデレ風の返答を心の中で用意している自分に気が付いたら、一度休暇をとることをおすすめする。それはさておき、幸一はさして有名でもないグラビアアイドルの大ファンとして、写真集のコーナーに直進した。
こ、こ。か、き、く、け、こ、小池、小泉、越川、後藤。大学三回生の今になって、グラビアアイドルの写真集を求めるなんて馬鹿げている、と思いながらも、幸一は本棚の中から「小林真綾」の名前を探していた。コナコ(どういう由来の芸名なのだろう)、小早川、小宮山……? 小宮山、小林……はなくて小早川。
ない。
誰かが買っていったのか。まあ、無理はない。それほど有名でなくとも、ファンは一人だけではないのだ。幸一はあきらめて別の書店に向かった。
『べ、別に「したい」ってタイトルに性的な何かを期待しているわけじゃないんだからね。……怒るよ』
幸一は本格的に休暇を必要としていたらしい。
この書店でも「したい」、すなわち小林真綾の写真集を見つけることは出来なかった。店員に尋ねようとしたが、女性店員しかいなかった。しかたなく、コナコに恨みはないが、彼女の写真集をワ行の最後に配置しなおして、一応の満足を得た。この店にもう用はない。
幸一は大学から都心を通って実家へ帰る電車のなかで、次のように考えた。
『今日はあきらめよう。初日に写真集を手に入れなくたっていいじゃないか。写真集についている応募券を使って、握手会と撮影会に参加できるチャンスなんか、あたるかどうか分からない時点でどうでもいいじゃないか。いつも応援ありがとうございますなんてあの子が笑顔で言ってくれるかもしれないという夢と希望と男のロマンを明日に引き延ばしたところで、何も損なことはない。あなたの写真集は初日に買いましたなんて、別に嘘でも言えることだ。そうだ、別に今日じゃなくていいんだ。何を悩むことがある。小林真綾の「したい」は、いつだって俺を待っているんだ』
幸一がいつも降りる駅の一つ前で、ある人影が電車からホームへと降り立った。その駅前の商店街には一軒だけ、さびれた書店がある。改札を小走りでくぐり抜けたその人影は、的確な歩行を繰り返し、書店の前までやってくると、ほこりっぽい感触のある玄関の扉に手をかけた。
『最初から本棚を探す気などないさ。店員に聞けばいい。俺は知っているんだ。この店をやっているのは物静かな爺さんだ。恐ろしく口の堅い、だけどひどくアブナイ方面の本も扱っていると噂の、な。この店の奥にならきっとあるはずだ、あの小林真綾が際どいポーズをいろいろとしているという写真集、「したい」が!』
勝利を確信した大学生の顔には、偏執狂の笑いが浮かんでいる。我らが主人公の頭はいまや第一次欲求のために煮え立ってしまっているようだ。
「あの、『したい』、ください」
直球が年老いた店主に投げられた。しかしこの剛速球は、いささか舌足らずだったと幸一はすぐに判断した。驚いた顔の老人に向かって、幸一は教師のように適切な発音で説明を試みた。
「あの、小林真綾っていうグラビアアイドルの、『したい』が今日、入荷していると思うんですけど、その『したい』の在庫がないかと思いまして」
店主の顔は驚きを張り付けたままだった。
「あの」
店主が突然、ニカリと笑った。ニカリ。
「え……え?」
店主に腕を掴まれた。
「こっちにあるよ。来なさい」
写真集を持ってきてくれれば、それで大丈夫なんですけど。
「しかし驚いたな。うちは結構限られた得意先しかいないはずなんだけどね。私が材料採取するところを見たのかね。それとも誰かのところで、僕の作品を見たのかな。もしかして、そのときファンになった?」
理解できない事柄にぶつかったとき、自分の理解の範疇で話を合わせようとすることは、多くの人が犯す過ちであろう。
幸一の思考は次のような経過をたどることになった。
なんのことだ……ファン……とりあえず俺は真綾タンのファンだ。それだけは偽らざる真実。負けない。こんな爺さんが真綾タンの何を知っているというんだ? 俺は真綾タンのすべてを見てきたんだ。ファンになった? 違うね。ずっとファンだったんだ。誰よりも早い段階で。馬鹿なことを言うんじゃない。
「いいえ、ずっとファンでしたよ」
と自信満々に幸一は答えた。
店主は幸一の顔をまじまじと見つめた後、また例のニカリを繰り返した。その顔のまま、幸一の腕をとったまま、階段を下りていく。
……また、笑った。何なんだ、この爺さん。なんで俺が店の奥に一緒に行かなくちゃいけないんだ。早く腕を放せよ。
「そうか、そうか。そういえば君、たしか中学生の時にちょっと大人の本を買いにきたよね。そのときは普通の子かな、と思ったんだけどね。それなのに、こちら側だったとはね。まあ、外見で分かるものでもないけど。……いやあ、こんなに若い人が同好の士だったとはね」
無口のイメージが強かったはずの老人が興奮した様子で自分に語りかけてくることに、幸一は漠然と不安を感じた。
これは何か、俺の期待した展開ではなくなっている。どちらかといえば、そう、何か打ち明け話をしているような。
ちがう、一蓮托生だ。
なぜこんな言葉が浮かぶのだろう。ああ、そうだ、二時間ドラマでよくある光景だ。純情で世渡りが下手な男が、悪い男に共犯を持ちかけられる。そのときの悪い男の話し方がちょうど、この老人のような話し方なんだ。で、そいつが言う、「俺たち、一蓮托生、だろ。」
階段を下りた先に、少し広い部屋があった。本は一冊もない。かわりに、部屋の中には、確かに小林真綾の「したい」があった。
白い部屋。その片隅に黒い椅子。写真集ではない「したい」。それ以外は何もない。したい。死体だ。爺さんは俺が死体を買いに来たと思っている……? 幸一は誤解を解こうと一瞬考えた。しかし、これまでの会話を思い出し、その誤解をほどくことが自身の死を招きうることを悟った。
真綾の体が横になっていた。足があった。死んでいるのか? 腕があった。雑誌から出てきたような、おしゃれな服を着ている。顔があった。眼は閉じていたので眠っているように見える。死んでいるのか? 外傷はなかった。生きているみたいだ。でもおそらく、死んでいる。死んでいるのか? 小林真綾が? 目の前で? ウィトゲンシュタイン。
「今日入荷したヤツね。処理が終わったばっかりで横にしてしまっているけど……それで合っているかね」
ウィトゲンシュタイン。語りえないモノに対して、私たちは沈黙しなければならないとウィトゲンシュタインは言った。不可知。先輩の難しいテーマを聞いたとき、後輩のゼミ生たちが決まって発する言葉。ウィトゲンシュタイン。
「グラビアアイドル……確かに体は健康そうだったけど、私はよく知らない人だったね。そんなに有名なのかい」
「ウィト……それほど有名ではないけど、俺は好きです」
「材料を手に入れた後、適切に処理すればそれで作品になる。……作品と呼んでもいいよなあ。だってこんなに美しいのだから」
「確かに作品ですよ」
幸一は訳が分からないまま、正直な感想を述べていた。人間の体が最善の状態のまま留められている「したい」からは、原理は分からないが、確かに作品と呼ぶべき何かを感じる。
「そうだろう、そうだろう」
ニカリ。