壊れた風俗嬢に、「友達から」と言ってきた優しすぎる男の話~二度壊れた私でも、もう一度笑えますか~
スマートフォンの画面が、薄暗い部屋の中で光ってる。
今年、二十五歳。
源氏名は「かすみ」。
「カフェ1、大人4、ホテル代別。これでよければ」
四万円。
それが、私の値段だ。
顔だけで取れている数字だ。
下手だと言われたことは、一度や二度ではない。
それでも、正社員だった頃よりは、ずっと効率よく金が増えていく。
視線を落とすと、左腕に白い線が並んでいる。
かつて私が、全てを終わらせようとした証拠。
あの時、確かに私は死んだはずだった。
今ここにいるのは、余生を消化しているだけの肉の塊に過ぎない。
実家の母さんは、電話口で嬉しそうに言う。
「正社員になれてよかったわね」
「体に気をつけて頑張るのよ」
その言葉を聞くたび、私は受話器の向こうで無言で頷き、この傷跡を爪で強く押す。
痛みだけが、嘘をついている罪悪感を相殺してくれる気がした。
大学では、私は優等生だった。
成績表には「優」が並んだ。
教授に「真面目で責任感が強い」と言われた。
面接官も履歴書を見て頷いた。
完璧な学生だった。
私もそう信じていた。
けれど、それは本質ではない。
頼み事をされたら断れない。
期待を裏切る恐怖で胃が縮む。
私は私自身の意思を殺し続けていたのだ。
新卒はIT系商社だった。
「新人だから勉強になるよ」
「君は要領がいいから助かる」
私は笑って頷いた。
終電で帰り、着替えず倒れる。
休日は眠り、目覚めれば月曜。
そんな日々が、三年も繰り返された。
ある雨の夜だった。
ふと、明日も同じ日が来るのだと思った。
死ぬまでに。
その事実が、私を押し潰した。
気づけば、手にカッターナイフがあった。
刃を左腕に当てる。
皮膚が裂け、熱い痛みが走り、血が流れる。
一度、二度、三度。
痛みよりも、先に安堵を覚えた。
これで終われる。
しかし、意識が遠のく前に、恐怖が勝った。
「もう少し深ければ、危なかったですよ」
病院に駆け込んだ私は、死にたいのに死ねない自分を呪った。
精神科の待合室で、うつ病と診断された。
それでも、会社には体調不良とだけ伝えて、復職した。
朝、薬をこっそり飲む。
電話を取る。
声を聞いた瞬間、視界が歪む。
涙が出て、手が震える。
言葉が出ない。
「申し訳ありません、少々お待ちください」
保留ボタンを押し、トイレに駆け込む。
声を殺して泣く。
呼吸が乱れ、胸が苦しい。
そんな日々を何度も繰り返す。
ある冬の日、会議室に呼ばれた。
「戦力としては難しい」
外で枯れ葉が舞う。
形式上は「自己都合退職」。
実際は切り捨てだった。
会社は、壊れた私を静かに廃棄した。
新宿の転職エージェントでも、結果は同じだった。
面接で退職理由を聞かれた瞬間、用意していた言葉が喉に詰まる。
激しい動悸と、視界の明滅。
「大丈夫ですか?」
そう聞かれた時点で、もう終わっていた。
履歴書の職歴の空白が、私の未来を閉ざしていた。
残高は減り続ける。
金がなければ衣食住もままならず、
社会は私のような壊れた歯車を排除する。
私に期待している親には言えない。
光の中にいる友人には頼れない。
スマートフォンだけが、私の唯一の話し相手だった。
匿名掲示板。
『仕事が見つからない』
『もう死にたい』
そんな弱音を吐き出すと、返信があった。
『私もそうだったよ。真面目すぎると壊れちゃうよね』
優しい言葉に、涙が滲む。
けど、やり取りを重ねるうちに、彼女は言った。
『今、風俗嬢してるけど、すごい稼げるよ。やってみない?』
『風俗嬢?』
体を売るなんて、最後の尊厳を、自分の手で捨てる行為だ。
――まだだ。
まだ、会社員としての自分を取り戻せるはず。
『無理です。そこまでは落ちたくない』
送信ボタンを押した指が、震えていた。
『最初は怖いけど、割り切ればただの仕事だし。即金だし、気軽に月収100万だよ』
……100万?
思考が停止する。
必死に否定したいのに、正社員として月手取り二十万円だった私にとって、価値観そのものを叩き壊す破壊力を持っていた。
でも――
体を売りたくない、というプライドで辛うじて理性を保った。
けれど数日後、赤い督促状が届いた。
家賃滞納。
追い出されたら、どこへ行けばいい?
公園のベンチ?
ネットカフェ?
所持金は数千円しかない。
来週には携帯も止まる。
尊厳?
プライド?
飢えも雨風も凌げない。
生きるための金を得る手段を選ぶ余裕など、私にはとうに失っていた。
涙で滲む視界の中、震える手で掲示板を開いた。
「……教えてください。その、風俗のこと」
池袋の店は、思ったより静かだった。
源氏名をつけられ、修正された写真を見せられる。
契約書の紙は、ただの紙のはずなのに、やけに重い。
客の前では、身体だけが進んでいく。
終わるたび、私は少しずつ自分を失っていった。
それでも、口座の数字が増えるたび、嫌悪感は鈍くなっていく。
汚れた金に縛られていると分かっていても、ここで生きるしかなかった。
待機室では、他の嬢たちが普通に笑っていた。
その輪に入れない自分が、いやでも浮く。
ランキング表の最下位に、私の源氏名が貼られる。
「かすみちゃん、また最下位だよ。やる気ある?」
「……申し訳……ございません」
顔だけでは足りない。
数字がすべてだ。
昔は成績で評価された。
今は売上で評価される。
尺度が変わっただけで、削られていく感覚は何も変わらなかった。
その感覚に耐えきれず、私はまた逃げた。
――いや、死んだと言ったほうが正しいのかもしれない。
私は二度、死んだ。
会社員として。
風俗嬢として。
次こそ、変われるだろうか。
私は、楽に稼げる場所を見つけた。
会話も営業もいらない仕事。
顔さえ良ければいい仕事。
そして辿り着いたのが、大阪の「たびと旧地」だった。
そこは別世界だった。
遊郭風の建物が並ぶ。
横で老婆が客を呼ぶ。
「お兄ちゃん、見てってや」
「可愛い子おるで」
ここは店ではない。
人間の展示場だ。
私は商品になる。
恐怖で足が止まる。
けどもう戻る場所はない。
連絡していた店に入る。
「別嬪やな。いけるわ」
「座ってニコニコしてればええ」
そう言われ、私は緋色の座布団に座った。
話さなくていい。
営業しなくていい。
ただ、そこにいればいい。
声が飛ぶ。
「この子、東京から来たばっかやで」
私は口角を上げる。
過去を捨てた私は、ただの「女」という記号になる。
緋色の座布団が、私の職場であり、世界のすべてだった。
言葉は不要で、ただ美しい肉人形として微笑む。
「お兄ちゃん、どや? 可愛いやろ」
男の湿った手を取る。
二階の狭い小部屋には布団と洗面器しかない。
ズボンを下ろしゴムをつける動作は、工場のライン作業のように効率化されている。
行為中、身体は機械のように喘ぐが、心は明日の天気を考えている。
この心身の乖離が、私の防衛本能だった。
事後に「なぜ風俗に?」と問われれば、
「エッチが好きだから」と答える。
客が喜びそうな、都合のいい幻想を差し出すためだ。
真面目に生きて心が壊れ、生きるために股を開く現実など、誰も聞きたくない。
嘘をつくたび虚無が広がり、かつての月給を数日で稼ぎ出した。
待機部屋では、
いずれ「普通の主婦」に戻るという逞しい同僚たちの声が胸を刺す。
彼女たちには、「戻る場所」がある。
しかし、私には、もう何もない。
オフィス街も、着信音も、もう私を容赦なく追い詰めるだけだ。
左腕の傷と壊れた心は、私を常識の世界から完全に拒絶していた。
私は金のためにここにいるのではない。
ただ、死ねないから生きているだけだ。
座布団の上で偽物の笑顔を貼り付け、
男たちに消費されることでしか、呼吸を許されない。
おばちゃんの声に合わせ、
私はまた空っぽの人形になって微笑んだ。
大阪での生活が半年を過ぎたころには、
私は立っているために抗うつ剤を増やすようになっていた。
心の限界を感じたある日、先輩嬢に連れられてホストクラブへ行った。
店で稼いだ汚い金は、高いシャンパンと彼らの甘い言葉に変換されていく。
それが金で買った偽りの愛だと分かっていても、依存から抜け出せなかった。
ある朝、見慣れない発疹と強烈な痛みで性病が発覚した。
治療でしばらく店に出られないとLINEすると、彼の態度は一変した。
用済みのゴミとしてあっさりとブロックされた。
一年半で心身をすり減らし、稼いだ千万を嘘つきの男に貢ぎ、
残ったのは性病とボロボロの精神だけだった。
真面目に生きてきた優等生の成れの果てに、ただ乾いた笑いが込み上げる。
完治の診断を受けた日、私を嘲笑うような大阪の街を去る決意をした。
口座に残ったのは、
死ぬ場所を探す旅費にしかならない、
わずか200万円。
私は薬の袋を鞄に詰め、海に近い神戸を目指した。
神戸の六畳一間。
母からの電話に「仕事が忙しい」と嘘をついた。
コンビニ店員以外と話さない無音の孤独の中、
生存確認のために首筋へ爪を立て、左腕に加えて自傷の線を増やす。
月に一度の心療内科で「外の世界と関わるよう」諭され、
独りで死ぬ恐怖からマッチングアプリをインストールした。
職業を「家事手伝い」と偽ると一晩で百件超の通知が届いた
けれど現実の恋愛市場は、あまりにも残酷だった。
療養中だと明かし、左腕の傷跡を見られた瞬間、
男は明確な嫌悪と恐怖を浮かべて逃げ去り、私をブロックした。
欠陥を気にしない男たちは、ソープの客と同じ目で手軽な肉体だけを求めてきた。
逃げるようにアパートへ戻り、鍵をかけて玄関に座り込む。
未読メッセージの山を開く気力はもうない。
傷跡があり、職もなく、精神を病んだ女。
まともな男は逃げ、身体目的の男だけが群がる。
それが私の明確な市場価値だった。
社会から逃げた風俗嬢が人並みの愛や温もりを欲しがるなど、
あまりに愚かで強欲すぎたのだ。
残高は、約200万円。
一秒ごとに減る残高の数字は、私の寿命のカウントダウンだった。
掲示板で「相手を選べて安全」とパパ活を勧められ、私はアプリに登録した。
「かすみ」という清楚な商品を、もう一度組み立て直す。
顔合わせからホテルへ行き、1回四万円。
数十人の男の財布と自分の身体を貪り合った、等価交換だ。
ソープほどはないが生活には十分すぎる。
しかし、減り続ける「若さという在庫」に焦燥する。
賞味期限が切れれば、ただの産業廃棄物になるだけだ。
そんなある日、モテそうな三十代前半の男から、妙に異質なメッセージが届いた。
『初対面でそういうことをするの、僕ちょっと恥ずかしいので、まず軽くお茶でもいかがでしょうか』
セックスを「恥ずかしい」と言う男。
金を払い、獣のように服を脱がそうとする男たちばかりの中、
これは警戒を解くための新たな手口なのか。
「……変なおじさん」
私は画面を見つめ、小さく呟いた。
待ち合わせに現れたのは、予想を裏切るほど整った顔立ちの、二十代後半の男だった。
「良い商品」の習性で一番安い紅茶を選ぼうとしたが、
彼は友人にするような純粋な提案でフルーツクレープを頼んでくれた。
「胸は何カップ?」
「経験人数は?」
そんな尋問に備え、脳内に定型文を用意していた。
しかし、
彼が口にするのは週末の過ごし方や好きな映画など、あまりに無害な質問ばかりだ。
暗い過去に触れられることもなく、
紅茶のカップが空になるまで数時間が過ぎた。
顔合わせの手当を含め、約一万五千円。
あと二万五千円追加すれば私を好きに扱えたはずなのに、彼はただ話すだけで終わらせた。
コストパフォーマンスが悪すぎる。
この男は何を考えているのか。
「今日は楽しかったです。また来週、お会いできれば」
誠実な笑顔で告げられ、私は混乱した。
肉体を提供せず、金をもらうことに詐欺のような居心地の悪さを感じた。
「ホテルとか、行かなくてもいいんですか?」
彼は少し困ったように笑った
「ごめんなさい、そういう流れでしたか……。ホテルは次でもいいですか?今日は友達とご飯なので」
自分だけが、風俗の卑しい思考回路から抜け出せていないことに、顔が熱くなった。
「ありがとうございました」
深く頭を下げ、逃げるように改札へ向かう。
「……変な人」
一週間後、再び彼と会った。
やはり清潔感があり恋人など造作もなさそうな男だ。
なぜ私のような傷物を拾うのか。
「こんにちは。また会えて嬉しいです」
笑顔で告げられるが、これは時間を切り売りするビジネスだ。
そう自分に言い聞かせながら、彼の向かいに座る。
洗練されたカフェで、彼は昔のアニメの話を切り出した。
銀玉や男子高校生の日常など、聞き覚えのあるタイトルに、思わず視線が上がる。
最初は適当に相槌を打つつもりだった。
仕事として、無難に会話を流すだけでよかったはずなのに。
「それ、私も見てました」
気づけば、口が勝手に動いていた。
そこからは早かった。
印象に残っているシーンや、好きなキャラクターの話。
大学時代、何も考えずに笑っていた夜の記憶が、次々と蘇る。
「いや、あの回は反則ですよね」
「わかります、あれはずるいです」
気づけば、どちらともなく声が少し大きくなっていた。
お洒落な空間で、くだらない話に本気で笑い合う。
その時間が、ひどく懐かしかった。
何の責任もなく笑えていた頃
ただの女子大生だった自分に、ほんの一瞬だけ戻れた気がする。
錆びついたはずの心の奥から、確かに「楽しい」という感情が浮かび上がってきて、
数時間はあっという間に過ぎていった。
楽しい時間は終わり、ここからが本番だ。
私は覚悟を決め、背筋を伸ばして商品に戻る。
「えっと……これからはラブホですね?」
「……あっ、え、あの、僕、あまり行かないから分からなくて。お店、案内してもらえます?」
はい?
パパ活でホテルに行かない男も珍しいが、女に尋ねる男など聞いたことがない。
「……わかりました。こっちです」
この街の地理には詳しくない。
けれど、身体を売る場所だけは、もう嫌になるほど熟知していた。
それが皮肉でならなかった。
濡れた浴室で、彼は、金で買った時間を惜しむ客とは違っていた。
丁寧に私の服を脱がせ、まずは相互に身体を確認する。
彼の清潔な身体には、病的な所見はない。
だが、視線は私の左腕の傷跡で止まった。
それでも彼は何も聞かず、黙って私を浴室へ促す。
ただの洗浄の場でしかないはずの空間で、彼は丁寧に湯船に湯を張り、並んで浸かった。
「気持ちいいですね」
「少し、ハグしてもいいですか?」
遠慮がちな声に頷き、彼の開いた脚の間へ背中を預ける。
背中に当たる下半身は、若い男の正直な生理現象として硬く勃起していた。
それなのに彼は、それを押し付けることも、まさぐることもしない。
ただ存在を確かめるように、ふわりと腕を回した。
「凝ってますね」
マッサージ師のように穏やかな手つきで私の首筋を優しく揉みほぐした。
下は欲望の鎌首をもたげているのに、手と心は僧侶のように穏やかだ。
この乖離は何だ。
ただ抱きしめて、首を揉んで、それで満足なのか。
彼の腕の中で、
私の強張っていた力が、ほんの少しだけ抜けていった。
浴室から出て、彼はベッドの反対側に回り込み、少し躊躇うように口を開いた。
「……どんな姿勢が好きですか?」
主導権を私に委ねようとしている。
「……一緒に寝れるやつが、いいかな」
商品としての魅力を最大限に見せるための、計算されたポーズ。
「ゴムは必ずつけてください」
それだけは譲れない一線だ。
「はい。でも、その前には……少し、抱きしめてもいいですか?」
「え……? はい……」
正面から包み込まれ、首筋や背中を恋人のように労わられる。
金を払って女を貪るような焦燥感がない。
「……おじさんは、ハグが好きですね」
「ご、ごめん、下手した?」
彼は慌てて身体を離そうとする。
「いいえ、気持ちいいです」
嘘ではなかった。
「でも、時間大丈夫ですか? 4万は、2時間までです」
延長料金は発生させない。
「そうですね……もう少しだけ……」
しかし、胸から秘肉へと移った彼の手つきは丁寧で、私は演技のスイッチを入れる隙を奪われた。
声が出ず、熱い息が漏れる。
執拗で的確な刺激に神経が集中し、仕事中にもかかわらず軽い絶頂を迎えてしまった。
風俗嬢失格の羞恥で顔が熱くなる。
「行きました?」
「……はい……」
安堵した彼がぎこちなくゴムを装着し、背後からゆっくりと侵入してくる。
痛みはない。
激しいテクニックもない。
ただ、確かめるような、極めて普通のセックスだった。
十数分後、体内で果てた彼は私を強く抱きしめ、
「ありがとう、気持ちよかった」
深い充足感を滲ませた。
シャワーを浴びたあと、彼に問いかけられる。
「かすみさんは気持ちよくできました?」
私は百点満点の笑顔で、いつもの定型文を返した。
「最高に気持ちよかったです!」
しかし、彼の表情は曇った。
「……お世辞は嬉しいけど、本音が聞きたいんですよ」
「え?」
「僕は、かすみさんが本当にどう感じたかを知りたいんです。下手だったなら下手って言ってほしいです」
言葉に詰まる。
本音?
そんなもの、商売女に求めてどうするの。
でも、彼の真っ直ぐな視線に、嘘をつき続けることが苦しくなった。
「……普通に、よかったです」
最高でも劇的でもない。
不快ではなく、少し気持ちよかった。
それが、私の精一杯の真実だった。
「そうか、よかったです」
4万円払って、マグロ女の「普通」という感想を喜ぶなんて、割に合わない。
「……やはり、変な人」
私は、少し笑った。
孤独な私が、あの「変な人」との再会に期待を抱いていた。
カフェで向かい合い、彼が語る日常の温かい言葉を聞きながら、私は核心を突く疑問を口にした。
「……あの」
「おじさんは、その……恋人とか、作りたければできる感じに見えますけど」
「なんで、私なんかを買ってくれるんですか?」
直球すぎる問いだったかもしれない。
彼は少し驚いたように瞬きをし、それから苦笑した。
「作れないわけではないんですが……」
「僕もいろいろ、婚活アプリとか出会いアプリとか使ってみたんですよ。でも、なぜか話が盛り上がらないんです。人を楽しませる才能がないんでしょうね、僕は」
「え? それは……どうしてですか?」
「僕は、オタクですよ」
「アニメとゲームで生きてきた、生粋のオタクです。仕事もゲーム業界で、周りは男ばかり。女性なんてほとんどいない環境でした」
「6年付き合った彼女がいたんですが、振られましてね。それから仕事に打ち込んで、気づいたらもう30歳。女性との付き合い方も、距離感も、すっかり分からなくなってしまった」
「だから、かすみさんとたくさん話して、経験を積もうかなって思ったんです」
なるほど。
私は、ただリハビリのための道具。
彼の丁寧すぎるセックスも、不器用な優しさも、カフェでの長い会話も。
全部そういうこと。
妙に納得がいった。
同時に、少しだけ胸が痛む。
「……私って、いいですか? 私、あまり話すの苦手で……」
「ああ、だからかすみさんにしたんだ」
「かすみさんは、自然体で言ってくれるから。お世辞じゃなくて、本音で話してくれる気がして、嬉しいんです」
女の心が読めない男。
不器用で、真面目で、過去の失敗を引きずりながらも、前へ進もうとしている男。
眩しい。
「……おじさんは」
「格好いいです」
素直な感想だった。
ホテルの重い扉が外界を遮断し、シーツの冷たさより先に彼の体温が包み込む。
「おじさんは、本当に抱きしめるのが好きなんですね」
「ええ。かすみさんがいてくれると、寂しさが減ってしまうから」
ふと、試してみたくなった。
この優しさがどこまで本物で、どこまでが対価に含まれるサービスなのかを。
「じゃあ、私を一泊買えばどうですか?」
「いいよ、かすみさんが望むなら」
即答だった。
「……え? 本当、ですか?」
「ええ。一泊したほうが、ゆっくりできそうですし」
心が熱くなる。
「ありがとう……ございます」
私の気持ちを最優先にし、身体を学習しようとする客など、一人もいなかった。
「おじさんは、本当に優しいね」
「かすみさんこそ、絶対いい彼氏できただろうし、比較されると自信がなくて」
「おじさんほど配慮してくれる人はいませんよ」
彼の何気ない元彼への問いが、記憶の蓋をこじ開ける。
大学卒業間近の冬、最後の彼氏は冷ややかに言い放った。
『誰も真面目な優等生なんて見てない。
実績より円滑に嘘を吐ける奴が勝つんだ!』
彼は正しかった。
ルールを守る善人は理不尽に搾取されて壊れ、狡賢い者が勝つ。
それが、この世界のロジックだ。
あの時、警告を真に受けて生き方を変えていれば、
オフィスで心を病み、西成の路地裏で怯えることも、
四万円で自分を売る惨めな夜を迎えることもなかった。
なぜ耳を塞ぎ、自分だけは特別だと信じたのか。
後悔の泥が足元から這い上がり、自己嫌悪が心から逆流する。
愚かな自分が憎い。
消えたい。
「ごめんなさい、私、ちょっと……」
発作の予兆を悟られまいと彼から離れ、震える手でバッグの中をまさぐる。
ピルケースの硬質な感触がない。
血の気が引いた。
薬を入れ忘れたのだ。
喉を押さえ、浅く速い呼吸を繰り返す。
視界が白く明滅し、逃げ出したくなる。
けれど終電を過ぎたホテルの密室に閉じ込められていて、もうどこにも逃げ場はなかった。
私は汚れた風俗嬢で、薬がないと呼吸もできない欠陥品だ。
自己嫌悪の毒が全身に回り、理由もなく涙が溢れ出す。
「ど、どしました?」
謝ろうとするが、痙攣した喉からは喘鳴しか出ない。
一泊八万円の商品が醜態を晒している。
死にたい。
そう願った瞬間、視界が温かな闇に覆われた。
彼が震える私を、強く抱きしめていた。
「もう大丈夫だよ、ゆっくり呼吸して」
穏やかな声と、後頭部を撫でる一定の手のリズムが意識を現実に繋ぎ止める。
「私から離れないで」
赤子のように懇願した。
「安心して。ずっと抱きしめてあげるから」
迷いのない言葉だった。
時間感覚を失う中、やがて呼吸が彼のリズムと同調し、発作が収まってく。
冷静さが戻ると、客の楽しい時間を台無しにした羞恥心、また鎌首をもたげた。
自分がどれだけ救いようのない人間か、言い訳しようとするが、
「辛かっただろう……」
その瞳に優しさだけがあった。
「無理に話さなくていい。休もう」
それは私が求めてやまなかった、無条件の肯定だった。
彼は私を横たえ、肩から首筋を温かく揉み解し始める。
言葉はいらない。
不器用な手の手のひらの感触だけで十分だった。
「……はい」
パニックが落ち着いてから、一時間ほどが過ぎた。
いつかその優しさから切り捨てられる恐怖から、私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「どうして、こんなに優しくしてくれるんですか?」
「一緒にいたら、つい元カノみたいに優しくしてあげたいんです」
元カノ。
けど代用品という痛みを、異常な優しさを独占したい欲望が上回る。
「私は……おじさんの優しさが好きです。彼氏になってくれませんか?」
契約ではなく、存在そのものが欲しい魂からの叫び。
「……かすみさんは、まだ若いです」
「色んなところに行って、色んな世界を見たら……僕なんかよりいい男なんて、いくらでもいますよ」
透明な壁が落ちる。
彼を失う恐怖が、プライドも尊厳もすべて粉砕した。
「ごめんなさい……私みたいな売春女じゃだめですよね」
壊れたように謝罪し、縋るように彼の手首を掴んだ。
「お願いします……手当なしでも、大丈夫だから」
「今後も、私のこと……たくさん呼んでもらえますか?」
「そ、そう……セフレみたいな関係で……私を、おじさんのセフレにさせてもらえませんか……?」
次の瞬間、強い力が私を引き寄せた。
「……セフレなら、だめですよ」
彼は身を乗り出し、懇願するように言った。
「パパ活やめてから、友達から始めてもらえますか」
「友達……?」
「はい。普通にご飯食べて、普通に遊んで……」
「映画を見たり、水族館に行ったり。そういう普通のことを、かすみさんとしたいんです」
「かすみさんが、パパ活、やめてもらえませんか?」
ああ、この人は本当に、どこまでも優しい。
彼は「友達」という言葉を使いながら、それを隠れ蓑にして私をキープしようとはしていない。
「はい……はいっ……!」
言葉にならない。
ただ、彼の胸に飛び込み、再びその温もりに縋り付いた。
私たちの物語は、これから始まるのでしょうか。
風俗嬢だった愚かな女と、不器用なほどに素直な男との、恋の物語。
※本作は【短編版】です。
この物語は、現実に存在した出来事をベースにしています。
まだ書いていない部分の方が、むしろ重いかもしれません。
続き(連載化)は、反応次第で公開する予定です。
もし「続きを読みたい」と思っていただけましたら、
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