屋上の七不思議は、まだ始まらない。
屋上のフェンスが、風に軋んでいた。
放課後の校舎は静かで、遠くから運動部の掛け声だけが聞こえる。
その向こう側に、生徒が立っていた。
「……先生、来ないでください」
振り返った顔は青ざめていて、今にも泣き出しそうだった。
俺は立ち止まる。
こういう時、急に近づくと逆効果だと知っている。
「来ないと欠席扱いになるぞ」
「そんな場合じゃないでしょ!」
少しだけ声に力が戻った。
よし、反応した。
「どうした。テストの点?」
「違います!」
生徒は震える手で頭を押さえた。
「見ちゃったんです……理科室で……」
理科室?
「放課後、忘れ物取りに行ったら、人体模型が……」
言葉が詰まる。
「動いたんです」
沈黙。
風が吹く。
俺は数秒考えてから言った。
「掃除当番がぶつかったとか?」
「違う!歩いたんです!」
必死な声だった。
本気で怖がっているのが分かる。
なるほど、と心の中で頷く。
「それで、怖くなった?」
生徒は小さく頷いた。
「頭おかしくなったのかって思って……誰も信じてくれないし……」
フェンスを握る手が強くなる。
あ、まずい。
一歩だけ近づく。
「なあ」
なるべく普通の声で話す。
「理科室の人体模型ってさ」
生徒が顔を上げる。
「昔から“夜に歩く”って七不思議あるんだよ」
「……え?」
「だから安心しろ。お前だけじゃない」
ぽかんとした顔。
少しだけ力が抜けたのが分かった。
「先生も子どもの頃ビビって眠れなかったし」
半分嘘だ。
でも今はそれでいい。
「怖いのってさ、“自分だけ”だと思うとキツいんだよ」
一歩、また一歩。
距離が縮まる。
「とりあえず降りて、職員室で温かいお茶飲もう。な?」
手を伸ばした、その瞬間。
足元が滑った。
「あ」
世界が傾く。
反射的に、生徒の背中を押した。
フェンスの内側へ。
驚いた顔が遠ざかる。
空が広がる。
――ああ。
「提出物、回収し損ねたなあ」
そんなことを考えながら、俺は落ちた。
__
次に意識が戻った時には白い空間にいた。
あまりにも白い。白すぎる。
見渡す限り、どこまでも白かった。
床も、空も、境目すら分からない。ただ、自分が立っているという感覚だけがある。
――あれ。
「……ここ、どこだ?」
さっきまで、屋上にいたはずだ。
風が強くて、生徒が怯えていて。
手を掴んで。
押して。
それで――。
「あー……落ちたのか、俺」
妙に納得してしまった。
すると、背後からため息が聞こえた。
「理解が早くて助かります」
振り向くと、そこには一人の人物が立っていた。
年齢も性別もよく分からない。整いすぎた顔立ちに、淡い光をまとっている。いかにも“人間ではありません”という雰囲気だ。
「えっと……どちら様?」
「神です」
「営業?」
「違います」
即答だった。
しかも少しだけ不機嫌そうだ。
「あなたは死亡しました」
「マジで?」
驚きより先に、確認したいことが浮かぶ。
「……あの子、生きてる?」
神は一瞬だけ目を瞬かせた。
「はい。落下は回避され、現在は保護されています」
「そっか!」
思わず拳を握る。
「よかったー!じゃあ問題なし!」
「問題は大いにあります」
神の声が低くなる。
「あなたが死亡しています」
「あーまあ、それはそうか」
自分の体を見下ろすが、傷一つない。
幽霊ってこんな感じなんだろうか。
神はこめかみを押さえた。
「……通常、もう少し取り乱すものなのですが」
「いや、生徒助かったなら教師的には大勝利でしょ」
「大勝利という概念を初めて聞きました」
小さく息を吐いてから、神は姿勢を正した。
「では手続きを進めます。あなたには異世界で第二の生を送っていただきます」
「転生ってやつ?」
「理解が早いですね」
「最近よく聞くから」
神は少しだけ表情を緩め――すぐに業務的な顔へ戻った。
「あなたには特別な能力が与えられます」
おお、と素直に期待する。
魔法とかだろうか。
剣聖とか勇者とか。
神は厳かに告げた。
「あなたのスキルは――」
一拍。
「『学校の七不思議』です」
沈黙。
「……転職先、ホラー?」
「違います」
食い気味に否定された。
「極めて希少かつ強力な能力です」
「トイレとか出てくるやつ?」
「……詳細は現地で確認してください」
説明を放棄した。
絶対よく分かってないな、この神様。
「では、転移を開始します」
足元が光り始める。
「ちょ、待って。最後に一個だけ」
「なんでしょう」
「異世界って――トイレある?」
神は初めて、明確に困惑した顔をした。
「……あります」
「よかった」
安心した瞬間、視界が白に溶けた。




