グリーフ記憶
空き缶をまた増やす。中に入っていたのは酒で、今はもう私のお腹の中にある。やがて内臓の各地を巡り分解され、排泄される。しかしアルコールはそう簡単に分解されず、数時間おかないといけない。酔いに快感を覚えたのはいつだったっけ、と思いつつソファに腰掛けていると、息子がやれやれと声をかけてきた。
「また飲んでる……そろそろやめたら?」
「……私には必要なの。というかいつの間に帰ってきてたのね、おかえり」
「もう夕方だし部活やってないし、当たり前だよ。てか母さんこそ……うわっ、酒臭!」
息子はそう言って鼻を摘んで手を振った。立ったままで、こちらに近づいてくる気はないのだろう。最近高校生になったからか、対応が冷たい。昔は毎日ぎゅーを要求されたというのに、成長とはこうも速く悲しいものなのだろうか。しかしどこか誇らしい気持ちも湧いてくるわけだから、悪い気分ではない。
「シュン、今日はちゃんとお父さんと話そうよ。ここ最近ずっと話してないんじゃない?」
私の言葉にシュン……息子が固まる。顔を顰めるとかジェスチャーをするとかではなく、本当に固まってしまうのだ。昔から自分の都合の悪い言動に対して固まる癖がある。たぶん夫でも知らないんじゃないかという、シュンの癖。
「あんまりお父さんは言わないし干渉しないけどさ……寂しがってたよ? 息子と話せないのは親としてどうなんだーとかなんとか」
言っていて思う。あの人も、もっと親ではなく自分を出せば良いのに、と。親としてとかなんとかの前に、好きだからとか自分の子供だからとかの理由だけで、主張したっていいじゃない。
変に毅然とした態度を取る必要なんてない。親だって不完全で成長する余地のある、未完成の人間だ。少し生きている時間が長いだけ。気持ちを隠すのは親の特権じゃないし、気持ちを発散させるのは子供の特権ってわけでもない。
そんなことを考えていると、シュンがヘソを曲げたらしく、こちらから顔を逸らして、一段声を下げて弱々しく言った。
「だって……父さんは将来のことしか話さないんだもん。俺は今したいことを話したいのにさ」
「そりゃシュンの将来を考えないなんて、考えられないじゃん。私だって考えてるもん」
「一日中酒浸りの母さんが?」
「そりゃ考えてるよ! 第一私は酒浸りなんかじゃありませーん」嘘だ。ソファに寝転ぶ。
「……でも父さんもだけど、俺は――」
家の外から車の扉の閉まる音がした。シュンはそこで話を止め、音の方向を向いた。夫が仕事から帰ってきたのだ。
「……やっぱり無理、二階行く」
「ちょ、シュン!?」
リビングの扉を開けてシュンは二階へ行ってしまった。その後玄関の扉が開き、リビングに姿を現したのは夫だった。
「その酒……また飲んでたのか」
「えへへ、おかえり。シュン、また二階に逃げちゃったわ。あなた……やっぱりなにかしたの?」
何気なく訊くとどうやら心当たりがあったのか、夫は黙ったまま私の空けた空き缶をガラガラとビニール袋へ片付け始めた。
「なに隠し事? 私にも言えないなんてことないじゃない。シュンになにか言ったの?」
「……なにも言ってないよ」
うんざりとした様子で袋を縛る夫。なんだか最近はいつもこうだ。シュンは話してくれないし、夫もだんまり。都合が悪くなると黙ったり言い訳したりするところが本当にそっくり。
苛立つけれど、そんなとこが可愛い部分でもあるって本人たちに言えたことはない。たぶん私だけの秘密で、私の隠し事はこれぐらい。
「そんなこと言わずに、さ? なんでも良いから話してよー」
「……すまん、一度帰ってきたがまだ用事があってね。これからまた出るんだ」
「……そう。ご飯はどうする?」
「外で食べてくるよ」
空き缶やら類似のゴミが袋にまとめられ、夫によってリビングの外に運ばれていく。後に残るのは寒々しいリビング。ソファがあって、目の前にテレビがあって、一角にダイニング、向かいにはキッチンとカウンター。なんだか寂しいものだ。
「ねぇ、言いたくなったらいつでも言って。私急かすのは好きじゃない、あなたも知ってるでしょう?」
ネクタイを締め直している夫が固まる。顔は見えず、どこを見ているのかもわからない。数秒のラグを置いて、夫がこちらに振り返る。
「もちろん、君が良ければいいんだ。ただもう少し時間を置きたい。いつか言うよ」
「……うん、わかった」
「それじゃあ行ってくるよ」
夫は重々しいゴミ袋をいくつか持ってリビングから出て行ってしまった。後から聞こえてくる車の扉の閉まる音、微量のエンジン音。
夫が帰ってきてまた仕事に出てしまうまでの間、二階からは物音一つしなかった。それほどまでにシュンは今、夫と関係が優れないのだろうか?
私はよっこらしょと立ち上がり、冷蔵庫から酒缶を取り出しソファに戻った。カシュという開栓の心地よい音とともに、彼らの関係悪化の原因を考えてみることにした。
ぐび、ぐび……あれほど気まずくなることなんてあるだろうか? どちらかがよほどのことをしでかした、また、その出来事に対し文句を言った。ぐび、ぐび……あまり思いつかない。
そもそも家族というだけで他者に違いないのだから当然だ。いろんな癖や好みを知っていても、どう考えているのかなんてわからない。様子から、やはりどちらもなにかを隠していることだけは確かだ。
ぐび、ぐび……テレビやスマホは点いておらず、宵の静寂がリビングに蔓延っている。煌々とした天井灯りがむしろ寒々しい。ぐび、ぐび……酔いにかまけているとそんな寂しさを忘れられそうになるが、案外簡単には離してくれないみたいで、辛くもないのに涙が出てきてしまう。
「……あっ」
ひとつだけ浮かんだ。それはもうずいぶん昔、シュンが四歳の頃の出来事だ。私と公園に来ていたのだけれど、目を離した隙にシュンが道路に飛び出し、一時は命の危険さえある状態になった……ということ。
幸いにもその後、シュンは健康そのもので退院できたしなんの問題もなかったのだけれど、当時ひとつだけ、シュンがシコリのような言葉を遺していた。なんでもそれが道路に飛び出した理由らしく、よく覚えている。
道路の向こう側にお父さんがいたから……。
あの時夫は仕事に行っていたし、私もそのことは知っていた。あのときは目を離した自分をよくよく蔑んだっけ。夫はよく慰めてくれた。シュンもやれやれ言いつつ否定はしてくれなかった。でも私は、やっぱり当時の私を許せないから。
酒はあっという間になくなった。残ったのは静かなリビングと私。そう……私は誰がなんと言おうとシュンの母親であり、この家族のお母さんなんだ。どれだけ自分を責めようと、戒めは消えない。
私はシュンも、夫も、見ていなきゃいけない。だからこそ二人が話し合えるようにしなきゃ。
「がんばるぞぉ……」
一気に飲みすぎたのか、尋常じゃない酔いが襲う。同時に眠気も。私はそのままソファに横になり、うつらうつらと電気も点けたまま意識を遠のかせた。シュンに見られたら、だらしない、と呆れられるだろうなぁ……。
微睡の中で声がした。それはシュンの声で、何事かを必死に言っていた。ただなにも聞こえなかった。目の前で額に汗を滲ませ叫んでいるシュンが、私にはよくわからなかった。
なにもない空間で私は座っていたのだけれど、シュンは立っていた。座ればいいのに、こちらに近づけば必死にならずとも聞こえると思うのに……そんな疑問をいつものように言おうとした。しかし声が出なかった。
そもそも、これは現実?
……カーテンの隙間から黄色の線が出ている。それは私とリビングを照らしている。立ち上がってカーテンをめくると、部屋は寒々しいぐらいに明るくなった。
いつのまに眠ってしまったんだろう、そう考えながらキッチンへ行き、グラスに水を入れる。このグラスはシュンが選んでくれたものだ。喉が鳴る、たまらず飲み干し、二杯目は途中で飲むのをやめて、残りで口内をゆすいだ。
あの夢はなんだったのだろう、私はのっそりソファに座って考えた。夢というものはいつだってツギハギであやふやなものだ。考えたところでそれらしい理由や記憶を肉付けするだけにすぎない。
しかしどうにも気になった。ここ最近のシュンの言動が、夫のよそよそしさが原因なのだろうか。ああでも、こうでも、理由は出てきた。しかしいまいちピンと来ない。酔いから醒めてしまったからか? よくわからないな。
そうだ、きっとこれもただの夢だ。暗示や啓示などとは別のもので、およそ一般的な夢なのだ。私の気のもみようが眠りに作用し、夢を見せたに違いない。そして気になっている理由も、きっとシュンが出てきたからだ。
迷いを断ち切るように考えを霧散させたのだが、ここで一つ、普段通りでないと感じた。時計を見る、もうシュンが起きている時間のはずだ。アナログ時計の数字と二つの針がそれを示している。それなのにリビングにシュンの姿がない。
シュンは夫によく似て、とても規律的な子だ。決まった時間に起きて、動いて、眠る。だから今日みたいなことは、シュンの異常を知らせる一つの指標になっている。
「シュン、朝だよー。もう七時だよー」
リビングから出て、シュンの部屋に向けて階下から呼びかけてみた。しかし返事はなく、やけに大きい時計の音だけが聞こえた。
「……体調でも悪い?」
トン、トン。階段を上がるたびに音がする。上り切って真っ直ぐシュンの部屋へ向かう。足を止めて扉の前に立っているのに、まだ音が聞こえる。トン、トン。
ノックを何度かし、シュン、と呼びかけてみたが、やはり返事はなかった。トントン、トン。
「……入るよ?」
ノブの冷たさ、扉が開く、まだ薄暗い部屋がこちらを覗く。
…………
「……シュン?」
トントントン、トン。トントントン、トン。
ドン。
気がついた、気がついてしまった。世にも恐ろしいことに。視界歪み、震え絶叫……音が聞こえない、いや聞こえている、トントントントントントン聞こえている。私はどうして生きているの? こんなにも震えて、熱くなっているの? それなのに、
どうしてシュンはいないの?
立ちあがらなきゃ、でもダメだった。今からでも探しに行かないと、いやシュンはもういない。あなた知ってたの、私だけ見なかった。紐解かれていく記憶と感情はまるで今であるかのように振る舞っている。解いているのは私じゃない。
昨日のことを覚えている、シュンは事故にあった。私が目を離したんじゃない、あの子が飛び出したんだ。手を握っていた、あの子が手を解いたんだ。あの子だけ轢かれた、いや私も轢かれてなおあの子だけ死んだ。守れなかった庇えなかった、それらを閉ざし、別の理由と感情を架空で繕って、私は進む現実とは別の世界を見ていたんだ。
言葉が、記憶が、付随する感情が、電気的に舞うがごとく弾ける。私は過去に対して、起きてしまった惨劇に対して、虚像を用いて否定する態度をとっていたんだ。信じられない信じられない……でも、もうわかってしまった。酔いが醒めたんだ。
「ああ、ああぁ、ああっ……」
シュン、シュン。トントントン……そうだ、お酒を馬鹿みたいに飲み干していたのは、だからだ。なんでってそりゃ、私が一番わかっていたじゃない。
もう動けない、なにもできない。死んでしまおう、でもどうして? あの子はもうどこにもいないじゃない。私は死にたい、それはただの逃避じゃない。今までそうやってきた、でも魔法は解けた。私はこれから……どう生きていけばいいの?
またお酒に頼ろうか、でももう酔えないだろう。他のものに縋ってみようか、あの縋っていた時間が特殊だったんだ意味がない。私はたぶんどこにも行けない。架空という寄る辺があったんだ、それはもうどこにもない。ただ失った実感が遅れて遅れて、失ったはずのシュンを見ていた時間を消し去るようにこちらへ向かってきている。
涙は拭けない、拭く力さえ入らない。床のフローリングが歪んでいる。視界が淀んでいる。冷たいばっかりが忍び込んでくる。怖い、怖い、私はこれからどうなってしまうのか。シュンはいない、どこに行ってしまったんだろう? 夢は……これを知っていたのだろうか?
玄関から音がした。夫が帰ってきたのだ。私はもうなんにも言えず、ただこの事実を彼に伝えよう、それだけを思ってジッとしていた。




