逃げる心
数日後の朝、わたしは気持ちが晴れぬまま窓辺に座り、庭を眺めていた。
すると背後から、マリアが控えめに声をかけてくる。
「お嬢様。今日は街へ出かけませんか?」
「……そんな気分じゃないの」
「だからこそ、です」
優しくも揺るぎない声に押され、わたしは結局、街歩き用の服に着替えることになった。
街は今日も活気に満ちていた。
市場を通ると、店主が気づいて声をかけてくる。
「嬢ちゃん、顔色が悪いな。ほら、これおまけだ」
差し出された果物を受け取って、胸がちくりと痛む。
広場に出れば、子どもたちが駆け寄ってきて手を引っ張る。
「アン姉ちゃん、元気ないよ。何かあったの?」
「……ちょっと疲れてるだけ」
無邪気な瞳に見つめられると、笑顔も曖昧になる。
やはり今日は心から楽しむことができなかった。
そのまま足が向いたのは、いつも立ち寄る小さな教会だった。
静かな聖堂の中、年老いた司祭がゆっくりとこちらを振り返る。
「アン、おまえさんの顔を見ると安心するよ。……今日は、随分と沈んでいるようだね」
木の長椅子に腰を下ろすと、わたしはぽつりとこぼしていた。
「隠していることがあるんです。不誠実だと分かっていながら……でも、話せば糾弾されるかもしれないと思うと、恐ろしくて」
司祭は少し目を細め、静かに問い返した。
「その相手は、本当におまえさんを糾弾するだろうか」
わたしは首を振った。
「……きっと、違うと思います」
「ならば、話せる時が来るまで待てばよい。隠し事は悪ではないさ。話したいと思う気持ちがあるなら、いずれ必ずその時は訪れる」
その言葉に、胸の重石がほんの少し和らいだ気がした。
教会を後にして、わたしは息をつきながら笑った。
「パン屋さんに寄ろうかしら。マリア、行きましょう!」
「ええ、いい顔をなさいましたね」
軽い足取りで角を曲がった、その瞬間。
「――アンネリーゼ様?」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこにはレオンハルト様が立っていた。
信じられない光景に、わたしは一瞬息を呑む。
庶民の服を着たわたし。街娘のように振る舞うわたし。
「ち、違います……!」
慌てて取り繕おうとしたが、頭が真っ白になる。
そして――気づけば、わたしは走り出していた。
屋敷に戻った後も、胸の鼓動は収まらなかった。
部屋に閉じこもり、心配して呼びかける両親やマリアの声にも答えられない。
最悪の形で知られてしまった――その恐怖で、頭がいっぱいだった。