曇り空の街歩き
ようやく訪れた休日。
胸を躍らせて街へ繰り出す――はずだった。けれど、今日は足取りが重かった。
市場の通りは相変わらず賑やかで、行商人たちの威勢のよい声が響いている。
「おや、嬢ちゃん、顔色が良くないな。これ、おまけしてやるよ」
果物屋の店主が、赤々とした林檎をひとつ袋に忍ばせてくれた。
「ありがとうございます……」
受け取ったものの、心は晴れなかった。
広場に出れば、いつものように子どもたちが手を振って駆け寄ってくる。
「アン姉ちゃん! 一緒に遊ぼ!」
「縄跳びしよう!」
笑顔で応じようとするのに、体が思うように動かない。
追いかけっこをすればすぐに息が切れ、縄跳びも二度でつまずいてしまう。
「……ねえ、何かあったの?」
幼い子が首を傾げる。
「いつものアン姉ちゃんじゃないよ」
胸が痛んだ。子どもにまで心配されるなんて。
「ごめんなさいね。今日はちょっと疲れているだけなの」
笑って答えたけれど、自分の声がひどく弱々しく聞こえた。
パン屋に立ち寄れば、夫婦が顔を見合わせて笑った。
「アンちゃん、浮いた話のひとつもないのかい?」
「この前はあんなに楽しそうに猫の話をしていたのに、今日は元気がないね」
「ええ……ごめんなさい」
軽口にさえ応じきれず、早々に店を辞してしまった。
食堂に入っても、骨付き肉を頼む気にはなれず、いつもの席に腰を下ろすだけ。
「……今日は、スープでいいわ」
匙を持つ手が震える。隣の客の笑い声や、劇の話題さえ遠くに聞こえるようだった。
――楽しいはずの街が、今日はこんなにも遠い。
屋敷に戻ると、心配そうな両親の顔が迎えてくれる。
「どうしたの、アン。今日は早い帰りね」
「疲れただけですわ」
そう答えて部屋にこもると、重たい沈黙がつきまとった。
ベッドに横になっても、目を閉じても眠れない。頭の中には、婚約のこと、貴族令嬢としての自分と街娘としての自分、そのすべてがぐるぐると渦巻いている。
夜更け、空腹に耐えかねてそっと部屋を抜け出す。
薄暗い廊下を歩いて厨房に足を踏み入れると――。
「……やっぱり来ると思いました」
灯りの下で待っていたのはマリアだった。小さく笑って、フライパンを火にかけている。
「今日は蜂蜜パンのフレンチトーストです」
甘い匂いが漂い、思わず胸が緩む。
「マリア……どうして分かったの?」
「お嬢様のことですから。眠れない夜は必ずお腹が空くでしょう?」
二人きりの静かな夜。焼きたてを頬張ると、涙がこみ上げそうになった。
「……マリア、わたし……」
声が震え、言葉がうまく出てこない。
マリアはただ、背中をそっと撫でてくれる。
「大丈夫ですよ。旦那様と奥様は、何よりお嬢様の幸せを願っていらっしゃいます」
「……でも……わたし……不誠実で……」
「無理をなさらなくていいんです」
その優しさにすがるように、わたしはしばらく泣いてしまった。