針の筵
婚約が公になった日から、社交の場でのわたしの居心地はがらりと変わった。
夜会のサロンに足を踏み入れた瞬間、空気が少しざわめくのを感じる。
いつも通り笑顔を浮かべて輪に入ると、友人の令嬢が待っていたとばかりに手を取ってきた。
「まあアンネリーゼ様! 本当にご婚約なさったのね」
「おめでとうございます!」
ぱっと花が開くように周囲の令嬢たちが声をあげる。
「侯爵家のレオンハルト様でしょう? 背も高くて穏やかな方で……まるで小説の騎士みたい!」
「わたくし、夜会でお二人が並んでいるのを見ましたのよ。とてもお似合いでしたわ!」
「……ありがとうございます」
微笑んで返しながらも、胸の奥は落ち着かない。
友人は扇を傾け、茶目っ気のある声でささやく。
「まさか恋愛結婚なのでは? 噂になっておりますのよ」
「ご縁があっただけですわ」
いつもの言葉で切り返すと、皆が「まあ」と笑い声をあげた。
――ご縁。
それが本当のことだとしても、いちばん分かっていないのはわたし自身なのに。
しばらくすれば、年嵩のご婦人方が通りかかり、遠巻きに声を落とす。
「侯爵家と男爵家では格が違いすぎますわね」
「侯爵家ならば、もっと相応しい縁がいくらでもあるのに」
笑顔を貼り付けたまま、心だけがざわついていく。
そのとき、柔らかな声が響いた。
「アンネリーゼ様は、とても素敵なお方ですから」
視線を向ければ、いつの間にか輪に加わっていたレオンハルト様が穏やかに微笑んでいた。
淡い光を帯びたようなその声音に、令嬢たちが一斉にざわめく。
「まあ……やっぱり恋愛結婚?」
「なんてお優しいのかしら!」
彼は騒ぎを意に介する様子もなく、ただわたしを見て言葉を重ねる。
「どうか、気を張りすぎませんように」
――どうして、そんなふうに。
心臓が不意に熱を帯び、かえって息苦しくなる。
「……お気遣いありがとうございます」
精一杯取り繕って答えるしかなかった。
屋敷に戻ったときには、ぐったりとベッドに腰を下ろしていた。
笑顔の仮面を外した途端、体の芯から力が抜けてしまう。
「お嬢様……」
マリアがそっと眉を寄せて近づいてくる。
「また随分とお疲れになってしまわれましたね」
「ええ……仕方ないわ」
答えながら、心は次の休日に飛んでいた。
あの日だけは、誰の視線にもさらされず、好きに笑えるはずだから。
――どうか早く、休日になって。