婚約の報せ
翌日。
いつものように書庫で本を開いていたとき、母に呼ばれた。
「アンネリーゼ、少し大事なお話がありますの」
母の言葉に胸がざわつく。応接間に入ると、父と弟もそろっていた。
皆の顔つきが、妙に柔らかい。
「実はな、アンネリーゼ」
父がゆっくりと口を開いた。
「侯爵家のレオンハルト様と、正式に婚約が決まった」
――え?
頭の中が真っ白になった。
つい先日、夜会で言葉を交わしたばかりの人。その相手と……婚約?
母は穏やかに微笑んでいる。
「とても素敵な方でしょう? あなたのことを気に入ってくださって、私たちも安心しましたの」
弟も、どこかほっとしたような顔で頷いた。
「姉さんが身を固めてくれるなら、俺も安心です」
――どうして、みんなそんなに穏やかに受け入れられるの。
わたしだけが置き去りになったようで、胸の奥が締めつけられた。
「……はい」
絞り出すように返事をするしかなかった。
婚約。
それは貴族に生まれた以上、いずれ訪れるものだと分かっていた。
けれど、心の準備もなく、わたしにとってはあまりにも唐突だった。
後日、レオンハルト様とお茶をする場が設けられた。
白いクロスのかかったテーブル、花の香りが漂う庭園。
彼はいつもと同じ、穏やかな笑顔で向かいに座っていた。
「こうしてお話しできて嬉しいです、アンネリーゼ様」
「……こちらこそ」
優しい声色に、戸惑いが募る。
彼の心の内が分からない。なぜ、わたしを選んだのだろう。
質問したいのに、喉がこわばって声にならない。
話題はごく普通に流れていく。
天気のこと、庭の花のこと。穏やかで、居心地が悪いわけではない。
でも、どこか落ち着かない。
ふと趣味の話になったとき、心臓が跳ねた。
「アンネリーゼ様は、どんなことがお好きですか?」
「……読書ですわ」
――ごまかすしかなかった。
本当のことは言えない。貴族令嬢らしくない趣味を明かせるわけがない。
すると彼が、ふと目を細めて言った。
「最近、庶民の間で流行っている劇をご存じですか? 小説が原作らしいのですが、なかなか面白かったんですよ」
わたしは一瞬、喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。
――知っている。だって、わたしは貸本屋で原作を読んだもの。
でも、言えるはずがない。
「まあ……そうなのですね」
取り繕って微笑む。
彼はそれ以上追及せず、また穏やかに別の話題へと移っていった。
柔らかな時間が流れて、お茶会は終わる。
別れ際、彼は礼をして穏やかに言った。
「またお会いできるのを楽しみにしています」
――わたしは、どうしたらいいの。
屋敷へ戻る馬車の中で、窓の外の景色がにじんで見えた。