街の休日
休日の朝、わたしは早くからそわそわしていた。
侍女のマリアに髪を簡単にまとめてもらい、飾り気のないワンピースに着替える。鏡に映る自分は、いつもの「男爵家の令嬢アンネリーゼ」ではなく、“ただのアン”だ。
「……どうかしら?」
「ええ、今日も立派な“町娘”ですよ、アン」
マリアがにやりと笑って、わざと名前を呼び捨てにする。その瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。
街はいつもと変わらず賑やかだった。市場の通りに並ぶ屋台から、香ばしい匂いが漂ってくる。揚げたての串肉、甘い焼き菓子、香辛料の効いたスープ。
わたしは屋台をはしごしては、あれこれ口に運び、マリアに「食べすぎ」と呆れられる。
「アン、口の端にソースがついてます」
「ん、ほんと?」
笑いながら拭い取って、また一口。
この自由さが、たまらなく心地いい。
野菜を売る馴染みの店主に声をかけると、彼は大きな籠に手を突っ込んでにこにこと笑った。
「アン嬢ちゃん、聞いたかい? この辺に猫の子が生まれたんだ」
「猫の子ですって? まあ、可愛いでしょうね!」
「親猫があそこの裏通りに住みついててな、昨日見たら、ちっこいのが三匹もいた。黒いのと、ぶちと、真っ白なのと」
「まあ! 三匹も? どの子も元気そうでした?」
「おお、目が開いたばかりで、ひょこひょこ歩いてよ。尻尾をぴんと立ててな」
店主が身振り手振りで語るたび、わたしの胸は弾んでいく。
「きっとすぐに市場をちょろちょろ歩き回りますね。ああ、早く会いたい……」
「そのうち顔を出すさ。アン嬢ちゃんの膝に飛び乗る日も近いんじゃねえか」
野菜の籠と一緒に、おまけの林檎を渡されて、わたしは笑顔で礼を言った。
「ありがとう! 猫の話を聞いただけで今日は幸せです」
「はは、嬢ちゃんは変わらんな」
マリアが横でため息をつきながらも、口元が緩んでいるのを、わたしは見逃さなかった。
広場に出ると、子どもたちが元気に走り回っていた。ひとりがわたしを見つけて、「アン姉ちゃん!」と声をあげる。
気がつけば、縄跳びに混ざり、追いかけっこをして走り回っていた。スカートに泥がはね、額に汗が流れる。それでも笑い声が止まらない。
「こら、アン! 顔まで泥だらけですよ!」
「うふふ、だって楽しいんだもの!」
マリアの声もどこか嬉しそうで、わたしはさらに笑った。
パン屋に寄ると、馴染みの夫婦が迎えてくれる。
「今日はいつもの丸パン? それとも甘いのもどうだい?」
「どちらもお願いします! ……そうそう、最近生まれた野良猫の子、見ました?」
「見た見た! ちょこちょこ歩いてて可愛いんだ」
猫の話で盛り上がり、わたしは思わず声を弾ませてしまう。
その後は食堂に立ち寄って、骨付き肉にかぶりつく。
「アン、頬に……」
マリアに布巾で拭かれながら、わたしは夢中で肉を頬張る。
店の隣の席では、旅人らしい人々が酒を片手に語り合っていた。声を落とすでもなく、陽気に笑いながら。
「それでな、あの劇場の芝居を見たんだよ。今都で一番の評判ってやつだ」
「おお、あれか! 恋に落ちた騎士と娘の話だろ? 客席はぎっしりだったって聞いたぜ」
「そうそう! しかもあの芝居、もとは小説が原作なんだとよ」
「へえ、芝居の話は聞いてたが、小説があるとは知らなかったな」
――小説? 原作?
わたしは思わず耳をそばだててしまった。胸がときめく。
「ねえマリア、聞いた?」
「聞きましたけれど……アン、目が輝きすぎです」
「だって、読みたいに決まってるじゃない! 芝居を見に行くより先に、本を読みたいの!」
居ても立ってもいられず、わたしはマリアの手を取った。
「貸本屋! 急ぎましょう!」
マリアが小さくため息をつきながらも歩調を合わせてくれる。
古びた貸本屋の扉を開けると、ほこりと紙の匂いが鼻をくすぐった。背の高い棚の隅々まで視線を走らせる。
「どこかに……絶対にあるはず……」
棚の隅に、擦り切れた背表紙を見つけた瞬間、胸が高鳴った。
本を両手で抱き上げる。心臓がどきどきと音を立て、思わず声が漏れる。
「やっと見つけた……!」
マリアが苦笑しながら本の埃を払ってくれる。
「ほんとに、食べ物の次に本ですね、アン」
「ええ! でも今日は最高の日になりました!」
わたしは嬉しさを噛みしめながら、本を胸に抱きしめた。
夕暮れ、屋敷へ戻る。
泥のついたスカートを脱ぎ、ベッドにごろんと転がる。
今日はたくさん遊んで、たくさん笑って、心がぽかぽかしている。
――やっぱり、わたしはこうしているときが一番自然だ。
そう思いながら、次第にまぶたが重くなっていった。