気配の会話
言葉を交わさずに過ごす時間が、少しも不自然ではない。
そんな場所が、この旅で見つかるとは思っていなかった。
玲は、葛香堂の試香台の前にいた。
今日は特に会話の約束もない。けれど、足が自然にここへ向いていた。
「お好みで香りを選んでみませんか」
司の言葉が背中越しに届く。
耳の届く声そのものは小さく、終わりの方はすでに聞こえづらくなっていた。
けれど、玲には“伝わった”。
言葉の内容ではない。
声の調子、空気の動き、視線のやさしさ。
そういうもの全部を“気配”として感じることで、言葉が補われる。
玲は並んだ線香の中から一本を選び、司にそっと渡した。
それを受け取った司が、香炉に火を入れる。
白い煙がふわりと立ち昇り、ふたりの間の空気をやさしく満たした。
今日の香りは、白檀に少量の龍脳を加えたものだった。
「少し清涼感があるでしょう。昔は、夏の部屋香としてよく使われました」
玲は、煙の中でふっと目を細めた。
やさしい甘さの奥に、冷んやりとした感触がある。
それがまるで、心の中に風を通すような、不思議な感覚を呼び起こした。
筆談ノートを開くことなく、玲は香炉を見つめたまま、指先でぽつりと机を叩いた。
コツ、コツ。
ふたつだけの軽い音。
それが“いい香りですね”という意味になることを、司はすぐに理解した。
「……伝わりましたよ」
司は微笑む。
玲も、言葉の代わりに口元を緩めた。
気配で話す。
目の動きや呼吸の速度、指の動き、煙の向かう先――
そんなもので、十分に通じる世界がある。
玲はふと思う。
――もしかして、司はずっと、そういう会話をしてきたのかもしれない。
香りで話し、沈黙で応える。
音がないことを、怖がらずに、丁寧に受け止めている。
その夜、玲のノートにこう記された。
《話さなくても伝わる場所が、ここにある気がした》