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羅国の沈香

 その日は、小雨が降っていた。

 傘をさすほどではないが、袖口に湿りが残る程度の細い雨。


 玲は、店先に漂う香りに、ふと足を止めた。

 昨日までとは違う、深く、やや甘みを帯びた煙の匂いがした。

 空気に湿気が混じっていたせいか、その香りはよりはっきりと、玲の感覚に届いてきた。


 店内に入ると、司はすでに香炉に火を入れていた。

 その傍らに置かれていたのは、小さな木片。

 ひときわ濃い褐色を帯びた、それは沈香だった。


「今日は、羅国らこくの沈香を焚いています」


 玲は司の唇の動きを注意深く見つめ、わずかに口の中で復唱する。


「……羅国?」


「ベトナムの中部あたりで採れるものです。やや辛みと、わずかな甘さが混じります」


 玲は、香炉のそばに座った。

 煙は静かに立ちのぼり、目に見えない柔らかな膜のように、体のまわりを包み込む。


 どこか懐かしい。

 でも、それが何に似ているのかはわからない。

 音よりも早く、記憶の奥に何かが触れる感覚だけがあった。


「香りは、記憶と結びつきやすいんです」

 司が静かに言った。


「言葉よりも、音よりも、直接“感情”に届く。だから、ふと懐かしく感じることがあるんですよ」


 玲は、うなずきながら旅ノートを開く。

 記録するのは、香りの名前と、その時の気持ち。

 でも、今回はなぜか、言葉が見つからなかった。


 記憶が勝手に浮かんできて、手が止まった。


 ――幼い頃、夕立の後に祖母の家で嗅いだ、畳の匂い。

 それと、濡れた木の廊下。

 その匂いに、少し似ていた。


 玲は筆談帳にそっと書く。


 《香りが記憶を引っ張ってくるんですね》


 司は静かにうなずく。

「香りは、時間よりも前に届くことがありますから」


 その言葉は、玲の胸にじんわりと染み込んだ。

 香りは、未来にも、過去にも通じる――。

 そんな不思議な力があるのかもしれない。

 ノートに記した一文が、煙の中で淡く滲んでいた。


 《羅国の沈香。過去の匂い。たぶん、忘れてた景色》

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