文香のこと
調香室から戻った後、玲は店の一角にある陳列棚の前に立っていた。
香炉や香立ての隣、小箱に丁寧に並べられた、手のひらサイズの和紙包み。
淡い花模様があしらわれたものもあれば、墨の筆文字でひと言だけ書かれたものもある。
「それは文香です」
背後から届いた司の声に、玲は振り返る。
「昔の人は、手紙に香りを添えて送ったんです。直接言えないことを、香りに託して」
玲は一つの小箱を手に取る。
和紙をそっと開くと、なかには布で包まれた、細長い香紙が入っていた。
ほのかに、白檀と梅のような甘い香りが立ちのぼる。
「恋文にも使われていました。“声にできなかった想い”を、香りにしのばせるようにして」
司の言葉を、玲は聞き取りながらも、どこか夢のような心地で受け取っていた。
香りが、人の代わりに言葉を運ぶなんて――。
「書かれていない文だけど、香りがその人の気持ちを教えてくれる。そんな道具です」
玲は、手にした文香の香りをもう一度確かめた。
やわらかくて、切なくて、少し遠くを見るような気持ちになる香りだった。
筆談帳を開き、玲は一言だけ書いた。
《香りで、誰かを想うことができるんですね》
司はうなずいた。
「そうですね。……声がなくても、届くことはあります」
玲の心が、ふっと震えた。
この人は、今の自分に必要な言葉を、音よりも静かにくれる。
目を伏せて、文香をそっと箱に戻す。
けれど、その香りは玲の袖に、胸に、深く染み込んでいた。
その夜、旅ノートの一角にこう記された。
《文香。言葉より先に届く、声のない手紙》