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最初の香り

 木の扉をくぐると、まるで別の時間が流れているようだった。

 外の光が穏やかに差し込み、柔らかい影を落としている。


 入口奥の棚には、ずらりと並んだ線香の箱。

 壁には香木こうぼくが丁寧に展示されていて、どれも少しずつ違った色合いをしていた。

 香りはどれも主張しすぎず、それでいて空間をやさしく包んでいた。


 玲はひと呼吸置いて、ゆっくりと奥へと歩みを進める。

 足音は、自分にしか聞こえないような静かさだった。


「いらっしゃいませ」


 落ち着いた声が、カウンターの奥から聞こえた。

 視線を向けると、店の奥で黒い作務衣さむえを着た男性が立っていた。

 手には香木と小刀しょうとう。香木の表面を丁寧に削っている。


 玲は軽く会釈を返したが、声を発することはしなかった。

 相手の声がどれだけ届くのか、まだ自分でもわからない。

 だから、まずは空気を読むしかない。


「……旅の途中ですか?」


 相手――つかさは、手を止めずに尋ねた。

 その声音には、余計な詮索も驚きもなかった。

 ただ香りと同じように、静かに、自然にそこにあるだけだった。


 玲は、鞄から筆談ノートを取り出し、ゆっくりと書く。


 《はい。少し、音が遠くなってきたので、旅に出たんです。》


 それを読んだ司は、何も言わずに小さく頷いた。

 そして、目の前にひとつの香木の欠片を差し出す。


「これは沈香じんこうです。東南アジア原産で、数十年かけて樹脂が染み込み、香りを持つようになる。よろしければ、焚いてみましょうか?」


 玲は司の提案に小さく頷く。

 司は香炉を用意し、銀葉ぎんようの上に小さな沈香片じんこうへんを置いて、静かに火を通した。


 すぐに、空気がやわらかく変わった。

 香ばしく、どこか深くて、ほんのりと甘いような。

 雨あがりの森を歩いているような、不思議な包容力のある香りだった。


 玲は、息を止めるようにして香りを吸い込んだ。

 それは、確かに音ではなかった。

 けれど、心の奥に確かに届いてくるものがあった。


 ――聞こえなくなっても、香りは残る。


 そう思った瞬間、玲の目の奥にふと涙が滲みそうになる。

 だけど、泣きはしなかった。

 ただ、旅ノートの端に一言だけ書いた。

 《沈香。静かな香り。たぶん、ずっと忘れない。》

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