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旅のはじまり

 窓の向こうで、風が枝を揺らしていた。

 春の匂いが混じるその風は、どこか遠くへ向かって吹いているように思えた。


 蒼井玲あおいれいは、じっと耳を澄ましていた。

 けれどその世界は、すでにぼやけている。高音域のざわめきや、微細びさいな音の輪郭は消えて、代わりに静寂せいじゃくが少しずつ自分の中を満たしていくのがわかる。


 医師から「徐々に進行する」と言われたとき、思ったより冷静だった。

 けれど、それは“まだ音が残っていた”からだ。

 今は違う。テレビの音が少しずれて届き、駅のアナウンスが歪むたびに、玲は胸の奥をきゅっと掴まれるような感覚に襲われていた。


 (――聞こえなくなる前に、記憶に残しておきたい)


 音のある世界。足音、風の通る音、誰かが笑う声。

 それを、できるだけ多く心に留めておきたくて、玲は旅に出ることを決めた。


 行き先は決めなかった。地図もガイドブックも必要なかった。

 ただ、自分の耳が最後に覚えてくれる音に、出会いたかったんだ。


 新幹線を降り、在来線に乗り換えて数駅。

 人の気配が静かに揺れる町に、玲はふらりと降り立った。


 風に乗って、ふと懐かしいような香りがした。

 木の匂いに似た、それでいてほのかに甘い、けれど深みのある香り。


 玲はその香りを追って、曲がり角をいくつか過ぎた。


 そして見つけたのが、その店だった。

 木格子に囲まれた、控えめな佇まいの小さな店。

 入り口にかかる暖簾のれんには「葛香堂かっこうどう」の文字。


 玲は思わず立ち止まり、香りを胸いっぱいに吸い込んでみた。


 (――音が聞こえなくなっても、香りは残るのかな)


 そんな考えがふいに胸をよぎり、気づけば玲の手は、そっと暖簾を押し上げていた。

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