ミミの反抗
「じゃぁ、行ってくる。ちゅっ」
「行儀よく、ですよ!」
行ってきますのご挨拶は、頬ではなく、口の端に落下した。
ミミはこういうのをとがめることがなく、気にした様子もない。
喜んでいる風でも、嫌がっている風でもなく、穏やかに微笑んでいる。
喜んでいる風であれば、もっと積極的になるし、嫌がっている風であれば、自粛する。
でも、どっちかわからないから、僕の「ご挨拶」は、頬でありながら、唇の際に落下するのが常だった。
正直、もっとゆっくりミミと過ごしたかったが、その夜は公式的な僕の歓迎会で、欠席するわけにはいかなかった。
周辺地域の有力者との晩餐とその後に小さな夜会が催された。
夜会には、僕の側近になりたい令息たちと僕の妃になりたい令嬢たちが押し寄せ、非常に賑やかで華やかな会となった。
姉の顔を立てて、その夜は望まれるままに多くの令嬢と踊り、望まれるままに多くの令息と談話した。
令嬢たちは僕の妃狙いだ。
僕はミミ以外の令嬢と結婚する気はないから、この令嬢たちの為にもさっさとミミを娶って、前に進められるようにしてあげねばと思った。
「流石はミミね。ちゃんとジャジャを立て直してくれたのね。ジャジャは皇太子としては失格だけどね」
「ええ。ミミ以外にはできません。姉さまは既にご存じでしょう?」
僕はこれまでずっと姉は僕の味方だと思っていた。
だけど、そうじゃないかもしれないと思い始めている。
あれだけ政略婚を嫌がっていた姉は、今は僕に政略婚を勧めるようになってしまった。
母も恐らく姉と同じ考えなんだと思う。
ミミへの帰還命令は父が発行したものだった。
王宮の女性の管理は母の仕事なのに、父が発行したというのがおかしいのだから。
「カルーリア家にあいさつに行くわよ」
「了解」
カルーリア国は、平和的統合といって、攻め滅ぼされたわけでもないのに自ら帝国の一部となる道を選んだ。
その代わり、かつて収容所で行われていた様な教育ではなく、次代のカルーリア候をはじめとする有力者の子息たちが帝立学園で教育を受けることで、緩やかでスムーズな統合を図るなど、いくつかの国家統合、法整備、治安維持に関する交渉が行われている。
次代のカルーリア侯爵、ジェームズ・カルーリアは、美少年だった。
僕より2つ年下で、ミミと同じ年齢だ。
柔らかい雰囲気ながらも爽やかで、僕なんかよりもはるかに王子様っぽい。
脳内で僕のライバルレーダーが、ピコンピコンと警告を鳴らしている。
加えて、僕を紹介された時、「ああ、マーガレットの……」とつぶやいたことを聞き逃さなかった。
カルーリア家、ゲール家などの東方有力者たちの間では、マーガレット・ゲールと僕の婚姻は既に既定路線なのかもしれない。
そんな風に思えた。
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「殿下にはいつ伝えるのですか?」
「今のあの子は危う過ぎて伝えられないわ」
「でも、姉さま、伝えた方が上手くいく気がするのです」
「ダメよ。ダメダメ。皇帝になる気がないように見えるほど信用できないもの」
「でも、姉さま、それじゃ殿下があまりにも……」
「これはミミのためでもあるのよ。『でも』は終わり。わかるでしょう?」
帝都へ戻る前日の夜、僕はミミが姉に反発しているのを初めて見た。
いや、見ていない。
ドアの前で盗み聞きをしてしまったというのが正確だ。
何の話か分からないが、姉が僕にくどくど口酸っぱく言ったような内容をミミにも伝えているんじゃないかと思った。
その時の僕にとって大事だったのは、ミミが僕の味方をしている風だったことだった。
僕はそれまで一度もミミが姉に逆らったのを見たことがなかった。
それは、逆らったというには弱すぎる抵抗だった。
それでも、僕はミミが僕を思って、姉の意に反する言葉を返したことが嬉しくて、その日の夜は、ミミを姉に譲ってそのまま立ち去った。
姉にとってミミとの最後の夜なのだ。
ミミはもう、僕側の人間になったような気がしていた。