孤独な宇宙飛行士に敬礼を
当たり前のことだが、宇宙の海は静かである。星々の廻る音も、星雲が蠢く音も、そもそも空気と言う媒介がないので誰にも伝わらない。これは、百億年を余裕で超えるほどの長い年月を経ても変わらない不変の真理である。僕はその延々と続く鬱蒼とした静寂のなかで、のんびりと船を動かしていた。鼻の頭をかきながら。
見えるのは真っ黒のシートの上にばらまかれた、いくつもの小さな銀色の点たちのみである。それ以上でもそれ以下でもない。この辺りは惑星もほとんどなく、地図を眺めても端っこにあるような大変辺鄙なところだ。この航路はあまり知られていないけれど、α星とθ星を行き来するには便利なので僕はよく使っていた。近道になるのはもちろんのこと、あまり他の船とすれ違うこともないので速度を出しやすい。
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代わりばえのないその景色に、思わずあくびをついたその時だった。船が大きな音とともに揺れ、警報装置のサイレンが響き渡った。赤くなった画面を慌てて確認すると、船の後ろの方で異常が起きている。どうやら、この近くを漂っていた宇宙ゴミが当たってしまったことがらしい。
幸いなことに大きな欠損はなく、船の酸素も漏れ出ているわけではない。しかし、エンジンへと繋がる配線が壊れてしまったようだ。このままでは、宇宙の航海を続けることはできない。
大きなため息が出た。これは応急処置をしなくてはならないだろう。仕方がないので運転席から離れて宇宙服を取って着る。一通り作業工程を確認して、何度も何度も手を動かしてシミュレーションをする。そして、ハッチを開けると、音のない冷たい宇宙空間に身を包まれた。僕は、船の外側の突起から突起へ、クライミングの選手のように移動していく。腰のあたりから伸びた命綱が、うねりながら深いジャングルに住む蛇のように伸びていった。やっとのことで船の後方に移動すると、配線が露出しているのを確認できた。
これくらいなら修理できるだろう。持ってきたカバンを突起に括り付け、カバンの中から工具を取り出し修理をはじめる。無音の世界の中でしばらくの間、鮮やかな赤い火花が散った。手こずりながらも少しの時間がたったころには、配線を再び元通りにつなげることが出来た。宇宙船の免許を取るときに覚えさせられた技術を使う羽目になるとは思っていなかったので、無事なにごともなく終わることが出来て少し安心した。
その瞬間、僕は音のないはずの世界の中で、確かに鈍い衝突音を聞いた。身体に宇宙ゴミがぶつかったのだった。
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覚醒したときには、僕は宇宙の海を無様に彷徨っていた。宇宙船はすでに体から10メートルほど離れたところにある。どうやら、衝撃で意識を失った際に宇宙船から手を離してしまったらしい。慌てて体を捻って確認するが腰につながれていた命綱も半分ほどで切れてしまっており、繋がるべき場所をなくした端が申し訳なさそうに頭を下げていただけだった。
さっと体内の血が頭からつま先まで一気に凍っていくような感覚があった。自分の頭蓋骨の中に納まっている自由気ままな司令塔が、この先にある避けようのない自分の末路を勝手に想像しだす。幸運か不幸か宇宙服は頑丈で欠損一つない。一方で、この黒い海を泳ぐなどできるわけもなく、宇宙船に戻ることはできそうにもない。手を動かそうが、その手が掻くべき水すらないのだ。
気が狂いそうだった。僕に残されているのはただ一つ。宇宙服の酸素がなくなるのを漂いながら待つということのみだった。そこまで考えると、やけに冷めた気持ちになって僕はもがくことすらやめてしまった。
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しばらく呆然とした気持ちで宇宙を漂った。そして一つの大きな決断をする。宇宙服を脱ぐことにしたのだ。視界の中で、機械ばりの灰色の船がだんだんと小さくなっていく様に耐えられなかったのだ。酸素がなくなって窒息死するのをただ待つだけならばもう、いっそのこと終わらせてしまおうと決心した。そう思ってしまうほど、僕の気持ちは追い詰められていた。宇宙の漆黒が、あるはずのない宇宙服の隙間から侵食してくるような恐怖があった。
しかし、どうも手が動かない。もたついている間に、身体はゆっくりと旋回して宇宙船に背を向ける格好になった。その時、自分に向かってやってくるものがあるのに気がついた。
それは人の形をしていた。白い宇宙服を身にまとい、僕の方向に向かってきている。助けが来たのか、と思ったがそんなはずかない。目の前にいるその人形が出てきた宇宙船もないし、命綱一本たりとも身体に身に着けていない。
混乱する思考の中で、どうにかその人形を受け止めた。その衝撃で、僕はさらに宇宙船から遠ざかっていく。抱き留めたのは、やや黄ばんだ白い宇宙服につつまれた「なにか」。ただ、妙な違和感があった。顔の部分のガラスは濁っていて、まったく表情は分からない。僕は声をかけようとしたが、そもそも声は聞こえないことに気づき、やめた。
とりあえず、ゆすってみる。反応はない。宇宙服を叩いてみても全く反応はない。というより、先程から抱き留めた彼は微動だにしない。
ハッと気づく。ひょっとして、目の前の彼は死んでいるのではないだろうか。よく見ればそうだ。この宇宙服は今僕が来ているのとは比べ物にならないほど、旧型だ。これは、昔小さい頃に博物館で見たことのある、まだ僕らの祖先が地球という星から宇宙に進出したころ使われていたものだった。その最低限の機能しかついていない質素な一張羅に、妙に心惹かれたので覚えている。そして、確かその宇宙服が使われていた頃に宇宙空間で行方不明になった男性宇宙飛行士がひとりいたはずだ。
動悸が激しくなった。
ゆっくりと旋回する体が宇宙船に再び背を向ける形になる。
濁ったガラスがこちらを見つめてくる。その瞬間僕は自分がすべきことを悟った。僕は唾を飲み込んだ。失敗する可能性だってあるし、確実とは言えない。いや、成功する可能性なんてほとんどない。それに、果てしない恐怖。
濁ったガラスがこちらを見つめてくる。そして、僕はやらねばならないと腹をくくる。どうせこのままでも死を待つだけなのだ。ワンチャンスにかけてみるほかない。それに、宇宙船からの距離は今も離れ続けている。と、頭では分かっているのだが……
濁ったガラスがこちらを見つめてくる。
濁ったガラスがこちらを見つめてくる。
貴方をここに残していくのは酷だ。そう思いながらも、僕は腕で思いっきり抱いていた宇宙服を押した。反作用で体が後ろ向きに進み始める。体がまたゆっくりと旋回して、宇宙船のほうへ体が向く。だんだん、本当にゆっくりながらも近づいている。
届け、届いてくれ、頼む。
祈りのおかげか、僕の手は再び宇宙船の突起をつかむことが出来た。
行きより慎重に移動してハッチを開けることができたとき、僕は振り返った。
旧型の黄ばんだ宇宙服はどこにも見つけることはできなかった。
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宇宙服を脱ぎ、操縦室で寝転がる。安心に由来するものなのか、息があがって体中の毛穴から汗が流れ出る。
こうして帰還できたことは、奇跡としかいいようがない。僕は複雑な回路が張り巡らされている天井を見上げながら、あの命の恩人のことを考え始めた。
彼は、新たに始まった宇宙開発の事業に参加する。普通の人間が百人、いや千人集まっても持ちえない大きな夢と希望をもって。
しかし、宇宙空間で何かしらのトラブルが起き宇宙船はバラバラになる。宇宙空間に放り出された彼は、一人孤独に死んでいく。バラバラになった宇宙船の破片とともに、宇宙の海を彷徨い続けこんな宇宙の辺鄙な果てまで流されたのだ。
――どんな気持ちだったのですか?
僕は寝転がったまま窓の外を眺め、彼に向かって問いかけた。決して安らかとは言いようがないものだったに違いない。独りで何事もできずに、長い間死を待つ。その恐怖を今の僕は知っている。そして、死んでからも誰にも見つけられることもなく、冷たい静まり返った黒い海で流され続ける孤独など想像することすらできない。
僕は彼がどんな容姿で、どんな性格だったかは知らない。
しかし、彼がとてつもなく勇敢な性格だったことは確信している。宇宙開拓がはじまった頃の宇宙船に乗って探検しようとした胆力はもちろんのこと、こうして見知らぬ後輩を途轍もなく長い間独りで航海して救いに来てくれたのだ。ひょっとすると、と僕は思う。彼は今も新たに宇宙と言う広大な海に遭難しそうになっている人を救いに行ったのではないだろうか。
とにかく、二度ともうあんな目には合いたくない。あんな奇跡はもうないのだから。
僕は胸の上で両手を交差させ、彼に感謝を伝える。
生きててよかった。でも今は、それよりも。
ただ孤独で勇敢な宇宙飛行士に敬礼を。
7作目。最後まで読んでくださりありがとうございます、月野ルサです。ツッコミどころがまあまあありますがそこは御愛嬌で。
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前作↓ お母さんに変な髪型にされた!
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