プロローグ「止まる時間と動き出す選択」
「はぁぁ〜。
結局そういうことかよ……」
俺はビーチチェアに寝そべって、一人グッタリと項垂れた。
プールサイドでおひとりさまの俺の視線の先には、キャッキャウフフと戯れる三人の男女がいる。
「う〜ん、どう考えても人数合わせだよな、これは」
薄々そうじゃないかと分かってはいたのだ。
ただ、クラスメートの神無月秋葉が来るというのに釣られて、いらない期待を抱いてしまったのが良くない。
確かに彼女のカワイイ水着姿を見られたのは、超・役得だったと思う。
でも、それだけにこの状況は、余計にダメージがデカイ。
今日、俺は同じくクラスメートのイケメン君、黒川大樹に誘われて、市内のプールに来ていた。
この辺りで一番大きいホテルに併設された、結構立派なウォータスライダーなんかがある場所だ。
ただ、俺はそもそも黒川と、こんなところに一緒に来るほど仲が良い訳でもない。
もっと言えば、ヤツが連れてきた二人の女の子——佐々木桜と神無月秋葉とは、ほとんど喋ったことすらなかった。
だから正直、何で俺が誘われたのか、よく分からなかったのだ。
ただ、それが人数合わせのためだとしたら——まあ、俺を誘った理由としては、分からなくもない。
下手に親しい友人を連れてくるよりも、こういう黒川にとってオイシイ状況を作りやすいからだ。
さっきから不貞腐れた俺の視線は、事あるごとに揺れる神無月に釘付けになっていた。
……うはっ、また揺れた!
隣にいる佐々木桜も、ギャルっぽいのがマイナスだけど、水着は結構大胆だ。それも、具体的に何がとは言いづらいが、大変素晴らしい。
ただ、できればもっと……お近づきになりたかった。がっくし。
「ん……? げっ、橘!?」
まさかとは思ったが、俺がふと視線を向けた先に教師の橘がいた。
橘は三〇過ぎの数学教師で、真面目一貫で面白みのない、口を開けば小言を言うような教師だ。
週末とはいえ、俺がこんなところで遊んでいるのを見つかれば、面倒くさいことになるに違いない。
それにしてもこんな学校から離れたところで、あいつを見かけるとは思わなかった。
橘は水着姿ではなかったから、ひょっとしたらプール横にあるホテルにでも、用があったのかもしれない。
取り敢えず俺は隠れるようにして、チェアの背もたれの隙間からジッと様子を窺った。
どうやら橘はこちらに気づかずに、どこか別の場所へと去っていったようだ。
俺はそれに一安心したものの、自分の状況を客観的に考えて溜息をついてしまう。
何でひとり寂しくプールサイドで、コソコソ隠れなきゃならんのか。
ちくしょう、サングラスが欲しい。
それで目元を隠して、一人さめざめと泣くんだ……。
「……ユッキー! ちょっと、ボール取って!!」
その声がポツンと俺一人だった世界を、無理やりこじ開けた。
ふと気づくと佐々木桜が元気よく、俺に向けて手を振っている。
ってか、ユッキーって誰やねん。大して喋ったこともないのに、馴れ馴れしいにも程がある。
俺には『松嶋幸』という、ちゃんとした名前があるんだから……。
と思いながらも、俺は素直にビーチボールを拾う。
そして、それを佐々木に向けて投げ返した。
「ありがとう!
……ユッキーってさ、真っ白な割に、結構いい身体してるよね」
佐々木は何ら恥じらうこともなく、俺の身体をジロジロと無遠慮に観察している。
「毎日運動は欠かさないからな」
「嘘でしょ!?
あんた帰宅部だし、部屋に籠もってるのが好きとか言ってたじゃん!」
俺、こいつにそんなこと話したかなぁ?
しかし、佐々木桜は知らないかもしれないが、男は一人部屋に籠もっていても反復縦飛びという、運動ができる。
「ユッキー、それにしてもさ。その鬱陶しい前髪は、切ったらどうなのよ?
それだけでも雰囲気が随分と明るくなるでしょうに」
俺の両目を覆い隠すほどの前髪を見て、佐々木桜が注文をつけてくる。
「これは願掛けして伸ばしてるんだよ。
おいそれと、切るわけにはいかない」
「願掛け?
いったいその邪魔くさいのに、何を願ってるんだか」
「そりゃあ、かわいい彼女ができますように——って」
「……プッ。
あははははは!!」
「おい、笑いすぎだろ」
俺がそう言って抗議していると、プールから上がった黒川が近づいてきた。
ん……? 便所か?
そう思っていると、黒川は俺の真横に来て耳打ちする。
「松嶋、よく聞け。
今日のプールな、神無月がお前を誘ってくれって言ったんだぜ」
「……は?」
寝耳に水というか、それを聞いて俺の思考は停止した。
「チャンスだぞ。
じゃあ、あとは頑張れよ」
イケメン黒川はそう呟いて、キラリと白い歯を輝かせて去っていく。
「おーい、桜。
ちょっと手伝ってくれないか」
「何? 何かあんの?」
黒川に声を掛けられた佐々木は、プールから上がって黒川の後を追いかけていった。
……チャンス?
チャンスって何だ???
俺はそう思いながらも、プールに入って神無月のいる方へと近づいていく。
ところが……。
「————」
おーい、逃げんなよ……。
残念なことに、俺が近づく程に神無月は離れて行ってしまった。
ちなみに、俺が追うのをやめると、神無月はその場から動かない。
これは……絶対に遠のけたいというよりも、一定の距離を置きたいという意思の現れだな。
仕方なく俺は、その場でプールに潜ってみた。
驚かせるつもりでもなかったのだが、潜水して少しだけお近づきになってみようとした訳だ。
ところが、その場で潜った俺が見たのは、とんでもない光景だった。
「……!?」
神無月の近くにいる子供がイタズラをして、プールの吸水口の蓋を持ち上げようとしている。
普通は外れないようになっているはずなのに、何故か蓋は簡単に持ち上がりつつあった。
やばい、これはニュースになったりするやつだ。
プールの吸水口に身体が吸い込まれて死亡——。
そんな恐ろしいニュースの見出しを、俺は何となく想像してしまう。
更に具合が悪いのは、神無月がその子供に気づいて、止めようとしていたことだ。
「神奈月、よせ!!」
俺は口に水が入るのも構わずに、思わず大声で叫んだ。
だが、よくよく考えれば、水に潜った彼女に声が届くわけがない。
……と、子供がタイミングよく、吸水口の蓋をその場に取り落とした。
その瞬間。
「……!!」
蓋を一瞬手に取ろうとした神無月の足が、吸水口に飲まれていく!!
俺は慌てて近づいて、彼女の手を無理やり引っ張り上げようとした。
一瞬水の中で神無月と目が合って、何とも言えない感情が広がる。
しかし、感傷に浸っている場合じゃない。
周りにはゴボゴボと吐き出す息が泡になって溢れた。
これは、ヤバイ……!
俺は彼女の手を引いて何とか浮かび上がろうと踏ん張ったが、吸水口は想像以上の力で俺と神無月を吸い込もうとしている。
次の瞬間、握っていた神無月の腕から、フッと力が抜けるのが分かった。
一瞬見えた彼女の目は閉じてしまって、意識を失ってしまったように見える。
しかも、力を失った神無月の身体は、吸い込む水の力をまともに受けて、まるで重しのようだ。
それでも彼女の手を離さないでいた俺は、一気に巻き込まれて、暗い場所へと引っ張られそうになった。
マズい、これは死ぬ!!
そう思った瞬間——。
俺の周りの視界は、一面グレーに染まった。
「あ……あれ???」
苦しかったはずの呼吸も、問題なくできている。
いや待て、ボコボコと浮き上がっていた空気の泡が、目の前で凍結したように固まったままだ。
しかも凍結した泡の向こう側には、手を伸ばしたままの姿勢で固まった神無月秋葉がいる。
「ど、どうなってやがる……」
『時間を止めたのだよ』
「だ、誰だ!?」
それは、どこからともなく聞こえてきた、変声機を通したような『声』だった。
ただ、周囲を見回したところで、『声』の主を見つけることができない。
というか、これは一体どうなってるんだ。何の冗談なんだ……!?
時間を止めたって言うが、時間ってそんなに簡単に止まるものだったのか!?
大混乱する俺を宥めるように、低い声色の『声』が再び響いてきた。
『慌てるな。そのまま私の声を聞くがいい』
「————」
俺は一旦落ち着くと、身体を動かさずに、視線だけをキョロキョロと巡らせた。
夢——かとも思ったが、俺は確実に起きているし、この状況でも普通に手足の感覚がある。
見ればグレーに染まったプールの中は、確かに時間が停止しているように見えた。
こんな非現実的なことが、目の前で起こるとは……!
ただただ驚く他ないが、『声』はそんなことはお構いなしに、話を進めていく。
『今のお前には二つの選択肢がある。
そのうちの一つは、このまま時間を進めるという選択だ』
「おい、待て待て待て!
このまま時間を進めたら、俺も彼女も死んじまうじゃないか」
俺は目の前で沈みかけている、神無月秋葉を見ながら言った。
彼女の目は完全に閉じてしまっている。このままでは危険な状態に違いない。
『そうだな……そうかもしれないな。
しかし、それも一つの選択だと思わないか?』
「————」
『だが、私は今のお前に、もう一つの選択肢を与えることができる』
何故だか直感的に、もう一つの選択肢というのは怪しい話なんじゃないかと思った。
そもそもこの状況自体が冗談じみている。
……でも、仮にこの状況が真実なのだとするならば、背に腹は代えられない。
「で、その『もう一つの選択肢』というのは?」
『私の望む、条件を満たすということだ』
ほら来たぞ。やっぱり胡散臭い。
俺はきっとコイツに、何かよく分からない無理難題を吹っかけられてしまうに違いない。
「それで、条件ってのは何だい」
『ふふふ……わかるぞ。
私を警戒しているな』
「——で、条件は?」
『……私の望む条件というのは、これらの道具を手に入れることだ』
すると、目の前の水しかなかった空間に、光る文字のようなものが浮かび上がってくる。
突然の出来事に驚きを覚えたが、俺は目の前に現れた文字をいくつか読み上げてみた。
「なになに……。
【ヴァリトスの爪】、【エルミナス鉱石】。
それと……?」
見たことも聞いたこともないような名前の品物が、そこには列挙されている。
『どうだ? この条件を飲むというのであれば、私は今止めている時間を少し戻してもいい』
「時間を戻すだって? 本当にそんなことができるっていうのか」
『できる。具体的に言えば、今から三分ほど前の世界に、お前を戻すことができる』
三分前の世界——。
時間を戻すなんて信じがたい話だが、それだけあれば神無月秋葉はもちろん、子供が吸水口にイタズラするのを止められる。
だが……。
「ちょっと待った。
こんなもの、どれも見たことも聞いたこともないものばかりだ。
手に入れろと言われたって、どうやって集めればいいのかもよく分からない」
『知らぬのも無理はない。
何しろこれらの品は、この世界では得られないレアアイテムばかりなのだ。
だが、案ずるな。条件を満たせるよう、私がお前に手を貸す』
「手を……?」
『具体的にはこれらのアイテムが得られる世界に、私がこれからお前を運ぶ。
これらの品物は、その世界で、敵を倒すなどの手段で入手すべきものだ』
「敵……? 敵ってなんだ?」
『例えばヴァリトスの爪。
これはヴァリトスという魔物を、倒して得られるものだ』
「魔物???
おいおい、まさか俺に、ロールプレイングをやれっていうのか」
『嫌ならもう一つの選択肢を選ぶがいい。
馬鹿ではないなら、自ずと答えは出ると思うが』
「チッ……」
俺は舌打ちすると、目の前で意識を失ったまま固まっている神無月秋葉を眺めた。
……まだ、まともに挨拶すら、していなかったように思う。
水着姿を見ることができただけで、十分に喋ってもいない。
もちろん、手を握ってもいないし、デートなんかもっての外だ。
そう——俺は、まだ目の前の彼女と、いっぱいやりたいことがある。
「……いいだろう。条件を飲む。
ただし、できる限りのサポートは約束してくれよ?
それと、俺の友達を、不幸にはしないと約束してくれ」
『よかろう。君の友達というのが君と共にいる少女を意味しているのであれば、約束は守る。
サポートも、もちろん引き受けよう。
むしろ何のサポートもなしでは、集めるのが難しいだろうからな。
例えばヴァリトスの爪は、ドロップ率0.001%。
ヴァリトスを一〇万匹倒して、一つ得られるかどうかという代物なのだ』
「なっ……」
『慌てるな。
私はこれらのアイテムが、集まらないと困る。
その意味で我々は、同じ目的を持つ仲間と言えるのだぞ』
直感的に、この言葉は信用できないと思った。
でも一方で、『声』が言っていることも間違いじゃない。
俺はこの状況を、何とかできないと困る。
『どのアイテムを集めるべきなのかは、念じれば先程のように空間に表示されるようにしておく。
だが、この先の世界では、アイテムの一覧を確認するのを他の誰にも見られないようにせよ。
それを誰かに見られてしまった場合、何が起こるのかは保証できない』
微妙な警告を受けたことで、一瞬俺の心に恐怖が浮かんだ。
俺はひょっとしたら得体の知れないやつと、取り返しの付かない取引をしようとしているんじゃなかろうか……?
「……ところで、あんたの言うとおりにして、本当に時間が戻る保証はどこにある?」
俺の問い掛けを聞いて、何となく『声』がニヤリと破顔したような気がした。
『信じてもらうしかないな。
それが嫌なら、お前はもう一つの選択を選ぶほかないのだ』
「————」
『では、運ぶぞ。
この先は、お前自身が意識して、生き残らなければならない世界。
死ねば私との約束も、破ったことになってしまう。
くれぐれも私の要求を、満たしてくれることを希望しているよ……』
そう『声』が告げた瞬間。
グレー一色に染まっていた俺の世界は、真っ白になった。