第九十四話:決めた覚悟
「うへぇー。年寄りはもう隠居したいもんだ…何回目よ、これ。」
珠玉と直哉がぶつかるたび、周囲へは甚大な被害が広がる。 高温の水の粒に耐えきれず、床が次々と抜け落ちていく。
紅玉の防御も完璧ではなかった。各地に散る人間全員を守ることなど不可能で、守りきれず死んでいった者もいる。
「2階避難完了!!最後に1階に…!」
『和哉、諦めろ!!1階はもう無理だ!建物が傾いてる!崩れるぞ!!』
電話越しの智春は、肩で大きく息をしながら叫んだ。魔法の酷使で、すでに疲労困憊の様子がありありと伝わる。
それは和哉も同じ。かれこれ1時間以上、全員が限界を超えて魔法をフル稼働させていた。
特に紅玉の防御は時間を追うごとに数も精度も落ち、崩壊が目前だった。
「行きます」
それでも、和哉は決して諦める気はなかった。その瞳に宿るのは迷いではなく、鋭い覚悟だった。
そんな和哉を横目で見ていた紅玉が、おかしくてたまらないといった様子で笑い転げる。
「懐っ!!16年前のなおやんそっくり!!新しい魔女が生まれる香りがするね。」
紅玉は「最後まで付き合うよ」と、軽やかに立ち上がる。
自慢のスカジャンを脱ぎ捨て、長い茶髪にボッと炎を灯した。
「はーっ!スッキリした。髪しばらく切ってなくて鬱陶しかったんだよねー」
軽くストレッチをし、腕をぐるりと回して手を差し伸べる。
その手を見た和哉は、不意に思い知った。
心動かされる、この圧倒的な存在感に。
兄と同じ——努力では埋められない、人を魅了するカリスマという天性の才を持つ者。かつて皇帝が神の存在をも脅かした理由が、今はっきりと理解できた。
鳥肌が立つのを自覚しながらも、和哉は拳を握った。
『和哉、逃げろ!!』
電話越しの智春の声とほぼ同時、轟音と共にその場が吹き飛んだ。
「っ!!今のは…!?」
咄嗟に衝撃に備えてしゃがみ込む和哉。
だが、柔らかな感覚に気づき目を見開く。
「こ、紅玉様、すみません!!」
「いいよ。君、直で炎に触ったら死ぬよ。動かないで」
気づけば、炎の玉に守られた和哉は紅玉の上に倒れ込んでいた。
「今ので、1階の人はみんな死んだんじゃないかな」
紅玉のその言葉に、和哉の背筋を悪寒が走る。
「逃げろ、坊っちゃん!!」
次の瞬間、紅玉は和哉を炎の玉の中から蹴り出した。
突然の出来事に抗う間もなく、和哉の体は瓦礫の中、2階の高さから外へと放り出される。
もう魔法を振り絞る力すら残っていなかった。
「菜摘っ!!」
「分かってるっ!!」
遠くにいた菜摘が全力で駆け出す。俊敏な動きには自信がある菜摘ですら、間に合うかどうかは分からない。
智春がすかさず菜摘の影を拡張した。
「あ、ありがとう…ございました…。」
間一髪、和哉は菜摘の影の中へ落下し無傷で済んだ。
菜摘は生きた心地がせず、荒い息を繰り返す。
「二人とも、早く!!」
遠くから春馬が叫ぶ。
その声に導かれるように視線を向けると、力なく地面に落下していく紅玉の姿があった。
「紅玉…様…?」
真っ黒なローブをまとった何者かの攻撃。
大きな斧。背中に輝く黄金の天秤——孤高だ。
「孤高だ…!!」
智春が叫ぶ。
次の瞬間、避難していた人々を巨大な影が覆った。
「意地でも、生き残るっ!!」
智春の脳裏に、栗毛の柔らかな髪をした少女の姿がよぎった。
人々を影で包みながら、全速力で走る。
「和哉!食いしばれ!!」
「はいっ!!」
智春のその言葉を聞けばお互いが逆方向に飛び出す。
もう限界を超えてなお、魔法を絞り出す。
あんなに助けてくれた紅玉を、見捨てて帰れるはずがなかった。
それこそ、ひよりに怒られてしまう。
そう決意し、全力で風を纏い走る。
「この年になって…お姫様抱っことは…笑っちゃうね…」
紅玉を回収し、智春たちの後を追う。
腹部からの出血は酷いが、まだ笑えるだけの気力は残っていた。
「まんまとやられた…私達が疲弊するのを待ってたんだ、あの狐ババア…」
逃げる面々には目もくれず、黒いローブの孤高は珠玉と直哉の戦いをじっと見据えていた。
「紅玉様…」
「坊っちゃん。さっきの言葉、本気だった…?」
無茶だと言われながらも、「行く」と言い切ったあの瞬間を思い出す。
「本気です」
その言葉に、紅玉はニヤリと笑った。
「みんな、逃げるのに必死で気づいてない。今なら、行っても誰も止められないよ」
腹を括る和哉。無理だと分かっていても、役に立てる保証がなくても——行きたい。
「多分、建物のあの辺り。被害ほとんど無くて綺麗でしょ?ゆったんが隠れてるよ」
紅玉に言われた通り、被害の少ない建物へ向かう。
「やっぴ。ゆったん老けたね」
「は?紅玉様!?その怪我…」
ぐったりとする紅玉を前に、冬樹は悟った。
孤高がついに動き出したのだと。
「なおやん狙いは間違いない。ゆったんは魔法でタイガーにターゲッティング。孤高が珠玉に夢中になってる間に私がぶん殴る。坊っちゃんはなおやんをぶん殴って連れて逃げて」
そう言う紅玉に、冬樹は頭痛を訴え頭を押さえた。
「タイガーって…誰っすか…。坊っちゃんは…和哉くん?」
「タイガーはタイガーだよ。珠玉!!」
紅玉の無茶ぶりに、和哉も思わず苦笑した。
「みんな、彼のために命かけに来たんだよね?」
落ち着いた口調でそう言い、紅玉は腹部の傷を自らの炎で焼いて止血。
ゆっくりと立ち上がり、二人を見据えた。
「勝ちに行こうぜ」
紅玉が拳を突き出す。
和哉も冬樹も、ためらいのない笑みを浮かべて拳を合わせた。
それを最後に、それぞれが珠玉、そして孤高の見える位置まで移動する。
『魅せるよ』




