第九十ニ話:兄のために
西玄関からロビー、そして直哉のいる部屋までが氷漬けになっていた。かろうじて生き延びた人々、そして体の一部しか動かせない者たちは、ただ呆然と天井――だったはずの空を見上げていた。
「…炎が、風が…氷を溶かしていく…」
人々を指揮していた笹野もまた、その光景に目を奪われていた。凍えた手を胸元に当て、かすかに震える唇で呟く。
「叡智ちゃんの炎に、なおやんの弟くんの風かな。初めて使う魔法だろうに、あんなにキレイな魔法…妬いちゃうなー」
その側を、ゆっくりと足音を響かせながら通り過ぎていくのは紅玉。建物の天井が消え、人々はただただ上を見上げるばかりだった。
「おいおい、お前の兄貴戦えないんじゃなかったのかよ!何だあれ…近づくのやめて…」
「行きます」
双子の弟と共に立つ和哉もまた、遠くの暴風をじっと見据えていた。その視線の先には、暴風の中心。
「バカ言うな!!お前は…っっっ、あぁーもー!!」
パシンッと乾いた音が響く。双子の弟の手が、勢いよく和哉の頬を打った。
「ちゃんと現実見ろ坊っちゃん。俺らがあそこ突っ込んで無駄死にすんのと、お前の兄貴の大事なもん少しでも沢山守るの、どっちが大事だコラ」
その言葉に、和哉の瞳は大きく揺らいだ。唇がわずかに開き、言葉を探すように震える。
「あれ…遠くに見えんだろ。あそこに立ってんの、紅玉の魔女だろ。あの人も傍観してるくらいなのに、俺らが突っ込めるか?」
冷静になってみれば、崩れた壁の隙間からあちこちに人影が見える。中には魔法を使える者もいたし、遠目に菜摘や春馬の姿さえ確認できた。
「まだ兄様は本気の魔法を使っていない。あの二人がぶつかれば、周りの人間みんな死ぬぞ?」
そう告げながら和哉の手を取った。重ねられた手は小さく震えている。恐怖と覚悟が入り混じっていた。
「私が風で人々を運びます。弟さんは1階に降りて開けた安全そうな場所で立っていてください」
「俺立ってるだけかよ!」と突っ込む。しかし、その顔には焦りと苛立ちが入り混じっていた。
「風で人間を運んだことなんてありませんよ。加減がわからないですし、自分から離れたらどんな速度で地面に叩きつけるかわかりませんから。車バックさせるときの要領で指示をください」
その言葉に、双子の弟の表情が一瞬で引き締まった。ギョッとしながらもすぐに頷く。
「あ、あと弟さんじゃない。智春。兄さんが智秋な。なっちゃんは漢字違うけど、夏だから春夏秋冬ってな。」
「冬って誰が担当だろう…」非常事態だというのに、和哉はそんなことが脳裏をよぎり、苦笑いを浮かべた。
「あぁ、俺ら全員母親違うから。冬に関しては、父親も違うし。冬華って名前だったけど、不倫相手との子供だってバレてからこの名前を名乗ることは禁止されたんだよな。家も追い出されて」
考えていることを見透かされ、和哉は気まずそうに下を向く。
「でもまぁ、冬華はべっぴんさんだったし教養もある。きっとどっかで幸せになってる」
「だから、ここで俺らが死ぬわけにはいかないよな」智春は柔らかく笑い、和哉の肩を軽く叩いた。
「ビビんなよ。調整効かずに叩きつけそうになったら俺がクッションやるからさ。頼んだぞ」
智春は助走をつけ、勢いよく崩れた窓枠から飛び出した。
「は、ちょっと!ここ4階!!」
驚愕する和哉。しかし視線を下げると、水面に潜るようにスッと影に入っていく智春の姿があった。
「そういえば智春も魔法を使えたんだった…」和哉は、胸の奥に微かな安堵が灯るのを感じた。
「笹野さん…でしたよね?」
崩れた部屋の隅に座り込む人影に、和哉は声をかけた。
「貴方の力が必要です」
その言葉に、笹野は一瞬目を見開いた後、力強く頷いた。




