第九十一話:格の違い
「いらっしゃーい。お茶でもしてく?」
「ふざけないでください」
この非常時にも関わらず、部屋にはカタカタと響くタイピング音が満ちていた。
目の前で癒しの魔女と珠玉の魔女が対峙しているこの状況で、直哉はキーボードを叩く手を止めなかった。
「つっても、さっき遊びで使ってたバリウムしかないけどねー」
ケラケラと笑う直哉の姿に、珠玉の目に苛立ちの色が滲む。指先が微かに震えていた。
「これは…手土産です」
そう告げるや否や、春馬が自ら切り落とした腕を投げ捨てる。その血に濡れた断面が床に当たる音が、部屋の空気をさらに重苦しくした。
直哉はそれを横目に見て、唇の端を僅かに吊り上げる。
「お、ホルマリン漬けにして飾っとこ。春馬絶対怒るじゃん」
そう言いながら、ガーゼで丁寧に腕を包む直哉の笑顔は、どこか壊れているように見えた。
しかしその瞳には笑いがなかった。何度も大切なものを失い、もう悲しむことさえ疲れ果てた者特有の、乾いた諦観が宿っていた。
「…何しに来たの」
低く、重い声。ドス黒い瞳が珠玉を射抜く。その気迫に珠玉の背筋がわずかに強張った。
「貴方も分かっているでしょう!孤高が動き出している!無駄な抵抗をしている場合ではない!」
珠玉も一組織の長。ここで気圧されて退くわけにはいかないと、声を荒らげる。
「そりゃ、抵抗もする。俺が人生全部かけて築いたものが崩れようとしてる。俺、そしてあいつ|、そんで柊。他にも沢山。いろんな奴が、弱い俺のために手を差し伸べてくれた。それをお前は壊そうっていうんだ。」
直哉の目に宿るのは、もはや怒りだけではなかった。悲しみ、決意、そしてわずかな哀れみが交錯する。
「あいつらには悪いけど逃げないぞ。柊の思いも、俺の夢も、終わるときはいつだって…この身諸共だ。」
珠玉の拳が震える。言われっぱなしではいられない。歯を食いしばり、唇を噛んだ。
「皇帝、皇帝皇帝皇帝!!貴方には皇帝しか見えていない!平等な医療?バカげてる。自由や平和を望んだ皇帝の真似ごと!昔の貴方はこんなに惨めな男ではなかったはずだ!!」
怒声と共に、室内の気温が一気に上がる。湿気を帯びた空気が肌に纏わりつく。湯気のような水の粒が珠玉の周囲を舞い始めていた。
「言っておくけど、大河…いや、珠玉。俺は本気でお前に勝つ。そんで、どうせ死ぬなら孤高の顔面ぶん殴ってから死ぬ」
直哉は懐から2本の試験管を取り出す。中で揺れる赤黒い液体が不気味に光った。
「やっと戻ってきた平穏を崩壊させ、16年前のように…今度は私の兄弟たちをも殺すのか。この、反魔女めが!!」
珠玉の怒声と共に、彼の周りに浮かぶ水滴が高温の湯気を立ち昇らせる。
「それはこっちのセリフだ。魔女社会を維持することには賛成だ。でも、魔女関係者以外は虐げられていい社会っていう珠玉のやり方には反対だ」
直哉は試験管の血液を飲み干し、珠玉との間合いを取った。その瞬間、直哉の瞳に赤い光が宿る。
「これは俺が発見して、まだ未報告のものなんだけど」
珠玉が警戒心を露わにし、一歩後退する。
「魔法が使える人間の血液には、少しだけど魔法が溶け出している。今俺が飲んだのは血を煮詰めて煮詰めて魔法を凝縮させたものだ」
「何が言いたい」
珠玉の視線が鋭くなる。しかし、その裏でわずかに焦りが見えた。
「一定の条件を満たせば、他人の魔法が使えるって聞いたらどう思う?」
直哉の言葉と共に、部屋の空気が揺れる。突風が巻き起こり、赤みを帯びた風が燃え盛る炎を運んだ。
「16年も時間があって、無力な魔女のままでいると思った?」
崩れかける建物の中で、直哉は珠玉を冷たく見下ろした。
「実践に勝る経験はない。16年前の革命を経験している人間と、そうでない人間では…格が違うからね」




