第八十九話:狂った歯車
「お前が…魔法のひとつでも使えたのなら…」
そう呟き、足から氷柱を抜こうとしている春馬のそばに珠玉が静かに寄った。
「並の人間なら生きていても廃人だ。その激痛に耐え、まだ動こうとするとは…恐ろしい精神力だ」
放っておけば出血多量か、この極寒の地で凍死するのは時間の問題。
珠玉にしては珍しく、これは“優しさ”のつもりだった。
「お終いだ」
せめて苦痛だけは早く終わらせてやろうと、春馬の頭に手を伸ばす。
「隼人!! 引き抜け!!」
「はいッ!!」
突如、外から駆けつけた二人の声が響く。本来なら登れぬはずの分厚い氷壁を乗り越え、菜摘と隼人が現れた。
菜摘は珠玉を蹴り飛ばし、隼人は春馬の元へ走る。
「ッ、あ"ぁ"ぁ"ぁッ!!」
隼人が春馬の左太ももに刺さった氷柱を蹴り、短く折ってから引き抜く。その激痛に、春馬の全身が痙攣した。
「春馬!!」
菜摘の必死の声が響く。白目を剥き、苦悶に喘ぐ春馬の姿は目を背けたくなるほどだった。
「は、ちょ、まっ…!!」
隼人が手を伸ばす間もなく、春馬は震える手で握った短刀を勢いよく腹に突き立てる。
「何やって…」
隼人の言葉が震える。だが、短刀を引き抜いた春馬の体は――
「…たちが悪いにも程がある。あのメガネのっぽ…」
春馬の腹の傷が瞬く間に塞がり、さらに左太ももの傷さえ癒えていた。右腕こそ戻らないが、血は止まり、傷口はかさぶたに変わる。
「魔法が…」
隼人が呆然と呟く。その問いが終わらぬうちに、菜摘は珠玉へと襲いかかった。両手に構えた無骨なナイフを振るい、間断なく攻撃を仕掛ける。
「一ノ瀬様…う、腕…」
未だ現実を受け入れられず、隼人は胃酸が込み上げるほどの衝撃に立ち尽くした。
「あの人のためなら…四肢がもがれても惜しくはない」
春馬は、震える膝を立てる。さっきまでの激痛が残る体が言うことを聞かない。だが、それでも戦う意志は折れていなかった。
「狂ってる…」
隼人の口から、無意識にそんな言葉が零れた。
「あんたが…」
その瞬間、春馬は隼人の胸倉を掴む。
「あんたが狂わせた歯車だろうが!! あんたがあの日、教団なんか入ってこなければ、俺たちは魔女と無縁な生活を送ってた!! 貧しくても…今よりずっと幸せだったはずだ!!あんたがそれを口にするな!!」
春馬の声が張り裂ける。珠玉に対してすら荒らげなかった声。その激しさに、戦いの手を止めた菜摘も珠玉も思わず目を向けた。
「やっぱり…一ノ瀬様は…裕馬…」
「裕馬じゃないッ!!」
隼人は確信した。春馬こそ、かつての弟・裕馬。直哉が「行かないと後悔する」と言った意味が、今ならわかる。
幼い頃から中性的な顔立ち。今は長い髪と化粧で女性のように見えるが、その下には火傷痕。あれは確かに裕馬のものだった。
「もう…俺の人生を壊さないで。もう、関わらないで…」
沈黙。重苦しい空気が全員を包む。時間だけが過ぎていく。
「時間がない。菜摘、来い。」
沈黙を破ったのは珠玉だった。菜摘に手を差し伸べるが、その目は氷のように冷たい。
「行くわけねえだろ…俺は、叡智の魔女の従者だ」
菜摘の決意に、珠玉の眉が僅かに動いた。
「ならば、全員氷漬けにしていこう。死にはしない…運が良ければ、な。反省していろ」
そう告げ、珠玉は背を向ける。だが菜摘も春馬も即座に走り出す。その瞬間、空に無数の雨粒が現れ、暴風のように吹き荒れた。
「チッ!! 待て!! 逃げるな!! 待て!!」
珠玉が氷柱の壁を軽々と越える。菜摘たちは必死で追おうとするが――
「ッ!!」
春馬の足元からじわりと氷が広がり、靴が地面に張り付く。
「クソッ!!」
春馬の叫びが氷の壁に反響した。




