第七十七話:炎の足音
叡智の魔女――その言葉に、周囲はざわめいた。
しかし、行こうと決意の光を宿す人間は一人もいない。人々の顔に浮かぶのは、更なる不安と恐怖だけだった。
パシッ。
ひよりの両手が同時に取られる。
それぞれの方向から、力強い手が引っ張った。
「なんか、算段がついたんだろ。なら、周りの顔色なんて見るな」
「同感です。動けない人間は、どうやったって動きません」
朱里と硝子は真っ直ぐ先を見据え、炎の方角へ歩き出す。
硝子の握る手は、相変わらず驚くほど力強くて安心できる。
だが、対照的に朱里の手は微かに震えていた。朱里もまた、恐怖に支配されている。
「自分の手から離れた炎を操るのは苦手。でも……ここでできるようにならなきゃ意味がない」
恐怖を知っている自分だからこそ、先頭に立って恐怖を和らげたい。
それが、ひよりの決意だった。
「算段ナシ、な。でも……あんたならできるよ」
朱里の裏表のない言葉に、胸が熱くなる。
その熱を頼りに、ひよりは一歩を踏み出した。
「早速……煙も酷い」
第一聖教会のロビーは、まるで地獄だった。
ここは大学病院だったはず。だが、通路はすでに炎に包まれていた。
「一旦離れて。二人は合図したら入ってきて。」
そう告げ、二人の手を離し、炎へと歩を進める。
硝子と朱里は一度退避し、ひよりは一人、燃え盛る業火の中へ消えた。
「……ダメだ。全然動かない……」
高温の煙も炎も、ひよりの体は耐えられる。
けれど、この“暴れる炎”は、普段扱うそれとは勝手が違った。
長い間手を突っ込むと、さすがに皮膚がひりつく。
「スッ……」
散らすように手を仰ぐ。
だが、炎はまるで意思を持つ獣のように、むしろ勢いを増す。
「……どうすれば……?」
焦りが喉を塞ぐ。
それでもひよりは、自分の魔法を混ぜた。
「地を這へ!!」
燃え盛る炎が、ひよりの魔法に引かれるように地面に収束していく。
床面だけに残るが、このままではひより以外は歩けない。
「消せないのは……どうやっ……」
視界が開けると、辺りには黒焦げの塊が散乱していた。
人の形を残すものすらある。
「ど、どうして……」
焼け焦げた人間。
ひよりにはすぐに分かった。
今まで、炎で人々を殺めてきたからこそ。
「革命って、簡単じゃないんだよ」
ドクン、と心臓が跳ねる。
突然、背後から誰かに口と鼻を覆われた。
「叡智ちゃん、いくら炎に慣れてるからって、動揺はダメよ。酸欠で死ぬわ」
口元に当てられたのは、薄いハンカチ。
敵意は感じない。言われた通り、浅い呼吸で酸素を確保した。
「やれやれ。炎の扱いがまだまだお子ちゃまだねぇ」
頭をポンポンと叩く軽い音がする。
その人物は、ひよりの前へ歩み出ると、炎を集めながら指を鳴らした。
「集めて、集めて、集めて……バーン!!」
大爆発。
病院の壁が弾け飛び、天井が揺れる。
一瞬、ひよりは意識を手放した。
目が覚めたとき、生きている心地がしなかった。
立ち上がると、そこに立つ人物が目に入る。
「へぇー。死ぬと思ってた。流石は、まっしーの秘蔵っ子」
敵意も殺意も感じない。
しかし、脳が警告を鳴らす。危険だ、と。
「本気でこの国ぶっ壊すなら――私を倒せるくらい炎に愛されてみな」
鋭く光る瞳がひよりを射抜く。
その圧に、体が金縛りに遭ったように動けない。
「最古にして、炎に最も愛された魔女……紅玉とは私の事だ」
「どうかな。私の弟子になる気……ない?」




