第三十六話:拒絶の痛み
隼人の言葉はジクジクと鈍い痛みとなって胸を刺した。
分からなかった。何が贅沢に当たるのかも、普通を知らないひよりにとっては分からない。
答えを探すように視線を彷徨わせるが、心の奥が冷たく固まっていく感覚に苛まれていた。
すると、黙り込むひよりの両肩をガシッと強く掴み、隼人は必死な目で彼女を射抜いた。
「沢山美味しい料理は食べましたか? 上等な服を着て、遊んで! 楽しかったですか?」
その問いかけに、ひよりはゆっくりと首を横に振った。
隼人の言葉が胸に刺さるほど、自分がいかに知らずに生きてきたかを思い知らされる。
隼人の目に涙が溢れ、声が震えた。
「知ってましたよ…! 俺たちみたいな教徒がどれだけ搾取されようと、魔女様はいつも惨めな姿だった!!いつも同じ白いワンピースを着て、帰ってくるときには真っ赤。食事なんて名ばかりの質素なもの! お付きなしでは外にも出られず…死んだような目で、ただ生きていた!」
隼人の言葉は怒りよりも、悲しみに染まっていた。ひよりは、その重さにただ耐えるしかなかった。
硝子や和哉がひよりをよく見ているように、隼人もひよりをよく見ていた。
考えずとも分かる。硝子はだいぶ特殊であり、和哉は兄の直哉が魔女であったため寛容であった。
だが普通に生きてきた人間からすれば、魔女は受け入れられるような存在ではない。
「魔女様は、惨めに生き恥をさらしてきたのに…。教団がなければこんな思いしなかったはずなのに…。それなのに、本気で教団を建て直そうと思ってるんですか!?俺が魔女様ほど力を持っていたら…すべて残さず壊してしまいたい!!そう思うほど、すべてが憎い!!」
肩に置かれた隼人の手に、爪が食い込む。ズキリと走る痛みに、ひよりは小さく息を呑んだ。
しかし声は上げなかった。声を上げたいのは、隼人の方なのだと知っていたから。
「理性的な僕と話しますか?それとも…狂気的な僕とお別れしますか〜?」
低く、不気味な声が空気を裂いた。
肩の痛みがふっと消え、ひよりが目を上げると、そこには隼人の手をあっという間に縛り上げた奏人の姿があった。すぐ横で、今にも飛びかかりそうな獣のような目をしている。
「ひよりに手を出すのはナシだ。話がやっとまとまったんだ。俺の仕事を増やすな」
さらに、隼人の首元にナイフを添えた菜摘が姿を現す。その目には微塵の迷いもない。
「邪魔したな。コイツは連れていくぞ」
「ひより様〜! 今日の朝ごはんはプリンがあるって和哉が言ってました!」
隼人を抱えた奏人と菜摘は、それだけを言い残すと嵐のように去っていった。
突然の出来事に、ひよりは立ち尽くす。
頬を伝う涙は温かいのに、心は冷え切って今にも凍ってしまいそうだった。
崩してしまった姿勢を無理やり正し、肩を抱くように腕を組む。
「私は貴方が嫌いだ…。どうして私を魔女に選んだ…」
そう悪態をつきながら、手を胸の前で合わせて目を瞑る。
『ー23』
『ー56』
頭の中に、冷たく響く数字の声が聞こえた。二つ、だった。
「最近…天命は聞こえなかったのに」
合わせた手を解き、耳を塞ぐ。しかしそれでも声は消えず、耳の奥に張り付いた。
暫くその場にへたり込んで、動くことができなかった。
「ひより様!」
どれくらい時間が経っただろうか。朝食の時間になるまで、ひよりはその場にへたり込んでいた。
何もできず、何も考えられず、ただ惨めさに押し潰されそうになりながら。
それでも、これ以上惨めにならないように——そう自分に言い聞かせて立ち上がったその瞬間だった。
屋敷の外へ出たタイミングで、奏人の声が聞こえた。
「何も食べないと力が出ないので! 僕特製のプリンパンです!」
そう言って渡されたのは、食パンの上にぐちゃぐちゃになって乗せられたプリンだった。
見た目は壊滅的だが、奏人は満面の笑みを浮かべている。
(なにこれ…)と一瞬絶句するも、その好意を無下にはできない。
ひよりは意を決して、そのまま大きく頬張った。
「…おいしい」
口に広がる甘さに、涙が溢れ出す。胸の奥に張り付いていた冷たさが少し溶けていくようだった。
ボロボロと泣き出すひよりを、奏人はこれでもかというほど撫でた。
頭をぐしゃぐしゃにされ、少しだけ心が軽くなる。
「僕もお供しますよー!」
満面の笑みでそう言う奏人が、ひよりの手を取る。
ひよりは戸惑いながらも、一人では心細く、その手を振り払うことができなかった。
「どうしようね。場所は分かるんだけど、遠くて…」
少し落ち着いたひよりは、小さく呟いた。
いつもなら、当たり前のように司教や他の教徒がパトカーを呼んでタクシー代わりにしていたのだが…今は違う。
それが間違いだったと理解した今、ひよりは正しくあろうと決意していた。
「あ、硝子が車を運転できるって言ってましたよ〜!」
その一言に、ひよりはギョッとした。
「…あの硝子が?」
間違いなく、死に一番近いところを走行するつもりなのでは…そんな光景が頭をよぎる。
「でも、ひより様と心中になっちゃいますけどね!」
奏人はニコニコしながらさらりと恐ろしいことを口にする。
ひよりは思わず苦笑した。
この時間、みんなはまだ朝食を取っていることだろう。そう思って部屋へ向かう。
すると、後ろから聞こえてくる声。
「無免許でもいいなら運転するぞ?」
ひよりは振り返り、そこに立つ人物を見て息を呑んだ。




