第三十五話:贅沢なこと
硝子と別れ、部屋へ戻る。奏人が帰ってくるのを待っていたのだが、それまで我慢できずにいつの間にか寝落ちてしまった。これが21時のことだった。
「ほら、ひより。起きろ」
朝6時頃。トントンと肩を叩かれ目を覚ます。瞼を持ち上げると、そこには菜摘がいた。
「お勤めがあるだろ。俺は今から寝る。朝飯までには起きるから、それまではゆっくりしてろ」
髪はボサボサ、目の下には濃いクマ。見るからに疲弊しているが、それでもひよりを起こしに来てくれる優しさに胸が温かくなる。
「ありがと」と、微笑んで返した。
「ん。大丈夫か?」
心配されるのはやはり慣れない。胸の奥がくすぐったいような気持ちになるが、それでも嬉しくて「うん」と答えた。
菜摘は満足したように頷き、そのまま部屋を出ていった。
布団の横を見れば、ぐっすりと眠る奏人の姿。この寝相からして、おそらく8時までは起きないだろう。
そう思いながら、そっと布団を抜け出す。
部屋を出て、ペタペタと素足で廊下を歩くと、朝の空気はひんやりと肌を刺すようだった。
「魔女様!素足で歩き回ったら汚いですよ!」
普段なら絶対に司教たちに叱られている場面だが、やはり違う人に怒られた。
「おはよ」
「ちょ、ちょっと待っててくださいね!今履くものを持ってきますから!」
そう慌てて走り去ったのは隼人だった。昨日の姿よりもずっとラフで、少しボロっとした服装が意外に思えた。
「これ!持ってきましたよっ!」
しばらくして、息を切らしながら中履きを差し出してくる。
「ありがとう」
「いえいえ!お役に立てて何よりです!」
心底嬉しそうに笑うその顔を見て、ひよりもなぜか嬉しくなった。
「今から、お祈りですか?」
「そうだよ」
「ついてくる?」と問いかけると、隼人はゴクリと生唾を飲み込み、緊張した面持ちで固まった。
「祈るだけだよ?」
ひよりは柔らかく微笑み、緊張をほぐそうとする。すると、意を決したように隼人が小さく頷いた。
こうして二人はホールへ向かう。
「すごい…」
壁画やステンドグラスの装飾を見て、隼人は興奮気味に呟く。そんなに珍しいだろうか?とひよりは首をかしげた。
「うちは、家族みんなどっぷり浸かっちゃってて…。壺買ったり寄付したりしてたら、祈りの集会への参加費用が足りなくなってしまって…参加したことがなくて…」
気まずそうに言い、視線を伏せる隼人。
「…すみません!」
謝る姿に、ひよりは逆に気まずさを覚えた。
「片膝を立てて座る。私と向かい合って、好きなように手を合わせて」
指示に従い、隼人はおずおずと片膝を立てて座る。
「昔の魔女たちは、共に生活していたそうだよ。衣食住や祈りに至るまで。そして祈るときは決まってホールの中心に円を描くように座っていたらしい。みんなが等しく神を崇拝するためにね」
ひよりが語ると、隼人は驚いたように目を見開いた。
「私が知ってる他の魔女は癒し、魅了、開闢の三人。でも、いずれの魔女も自ら教団を運営しているわけじゃない。本来、教団と魔女は交わらないんだよ」
ひよりの言葉が続く。
癒しの魔女は、影響を受けない独立した医療を掲げ、力の弱い人々への影響力が大きい。魅了は姿を現さずともSNSで若者の信仰を集める。開闢は富裕層や権力者が信奉し、利害でつながった淡白な関係が多い。
「それに対して、私を崇める人々は中高年以上が多い。昔ながらのマルチ商法で身内を引きずり込む悪質な勧誘で、全国に多くの教徒を得た。たった十六年で日本一の教徒数。でも、その急成長の裏で搾取が繰り返され、役職を持たない教徒たちは貧困を極めている。上の人間は贅沢三昧だよ」
隼人は運が悪かった。他の魔女を崇めていたなら、もっと違う未来があったのかもしれない。
そう思うと、ひよりは胸が締めつけられるようで、拳をぎゅっと握った。
「魔女様も…贅沢なさってたんですよね?」




