看板の子 ~臆病者、カレーを食べる~
臆病者は今日もカレーを食べる。
思い出の中にある好きな食べ物って、どうしてああも美味しく思えるのでしょう。本当の味の何倍も。
そして、思い出の中にある憧憬は、どうしてああもビターチョコのようなほろ苦さがあるのでしょう。
ふと思い出したら、その場所に向かってみるのも良いかもしれません。
本当の味と、本当の思い出がまた、新しい顔をして現れるかもしれないので。
※この物語はフィクションです。登場する地名、店名、人物、団体や設定は実際のものと関係はありません。
最後にこの駅で降りたのは、いつだったろうか。
そう時間は経っている様に思えなかったけど、駅とその周辺は随分と様変わりしてしまっていて、その光景を見た僕は、自身の中で耳打ちしてくる錯覚を戒めた。
総武線のホームからあんな大きな量販店のビルは見えなかったし、記憶の中にある駅と融合したビルは、昭和の臭いを引きずったデパートだった。それがこんなお洒落で綺麗なビルに変わってしまった。電気街口を出て、左手すぐにラジオ会館のゴテゴテした電飾看板、駅の軒先で露店が連なり、右手にもあんなに大きなビルなどなくて、四方をフェンスに囲まれたバスケットコートがあった。
中央通りに出るまでも、いや出てからも様変わりしている。
あの頃はメイドの恰好をした客引きもいなかったし、ゲームやアニメの店はもう少し少なかった。
各々のテーマソングを店先で鳴らす老舗の量販店が割拠する中で、小さな店が点々とあり……あの交差点の向こうに見えるイベントを催しているところは、物流会社のビルだった。
ヤマギワの裏にあってビルに挟まれた小さな乾物屋なんかももうなくなってしまっているのは、入ったことがないにしても、見慣れた身としては寂しいものがある。
変わったといえば、食事ができる店が増えた事だろう。
大体は駅ビルの1階に所狭しと並んだフードコートか、大通りから外れた路地やガード下にぽつりとあったイメージだ。ドネルケバブなんて移動店舗で1軒だけひっそりとやっていた。
けれど歩いてみると、往来する人々は変わらない。先を急ぐ勤め人に、授業をさぼって遊びにきているであろう学生と観光客。外国人の比率は多くなったかもしれない。
交差点を越えて一本入ったところは、それでもまだあの時の面影は残っている。
何もかも皆懐かしいというのは、何のセリフだったか。
ちょうど昼時だから、あの店に行こう。尤も、あればの話だが。
日通ビルと元々小さな電気店だったオデン缶自販機のあるゲームコーナーを曲がり、その通りをまっすぐ進みニ本目の十字路を右に折れたところにその店はある。いつも行列ができているラーメン屋の真向かい。レンガタイル貼りの段差に赤い庇のある入り口。一見喫茶店に見えなくもないその風貌の店は、もう何十年もそこでやっているカレー屋だ。
もう何年も前、僕がまだ蔵前で働いていた頃によく通った店。
最初に行ったのはいつだったか……1人でふらっと入った気もするし、職場の誰かに連れられて入った気もする。記憶というのは本当に曖昧だ。
そこに何度も通っていたというのは覚えているのに、不思議だ。
その店は行列こそできなかったが、いい店だった。まず、カレーがうまい。カレー屋なんだから、うまくないとおかしいだろ等と野暮な事を言ってはいけない。そもそも不味いカレーを出す店など殆どないだろうから言い換えるならば、個人的に「体に合う味覚のカレー」を出す店とした方がいいだろうか。
あのころの懐事情で毎日行くには少々値が張ったが、それでも何かにつけ通っていた。
その店には一人の店員がいた。その店の看板ともいえる店員だったと記憶している。
ふとその店員の事も思い出した。
自分が若かったなと苦笑してしまう話だ。
*十数年前*
蔵前の卸問屋に勤めていた僕は、昼の休憩をずらしてとっていた。
時刻は大体13時を回っており、その頃には出入りの業者や配送の運転手からの問い合わせもひと段落ついていたからだった。
会社の自転車を借りて、僕は昼食に出かける。
大抵は浅草橋の銀行前にある中華料理の定食を並んで食べるか、反対の通りにある雉飯弁当を買い、倉庫の隅で一人つつくのだが、給料日の後はいつもペダルを漕ぐスピードを速め、外神田まで足を延ばした。
自転車で十分程度の場所は近所だと職場の誰かが言っていた。ならば中央通りもその時の僕にとっては近所である。現に量販店の入り口からは「あなたの近所の」等と聞こえてきている。
蔵前通りから中央通りを左折し、適当なところで自転車を止め、一本入ったところにあるカレー屋が目的地だった。僕はその店が気に入っていた。赤い庇のついたガラスのドアを開けると、スパイスの香りが店中から入り口へ向けて流れてくる。
店内の明りはややオレンジがかっていて、小さなスペースに数席ある二人掛け一人掛けのテーブルには赤と白のチェックのテーブルクロスがかかっている。そのさらに奥は木製のカウンター席となっており、すぐ向こうは厨房だ。
店内の音楽は、僕の生まれる随分前の曲が嫌味でない音量で流れている。
そして――
「いらっしゃいませ」
店内のレジ前から愛想のいい声が聞こえる。
赤いバンダナを頭で巻き、赤いエプロンをした色白で華奢な彼女はこの店の店員だ。
狭い店だからかホールで給仕をするのは彼女一人だ。彼女の名前は分からない。名札も何もなかったし、知らぬ者同士なのにこちらから本名なんて聞くのが図々しく、気恥ずかしい気がしたのだ。
ただ、彼女は皆から「ヨコちゃん」と呼ばれていた。
ヨコちゃんは凛としているけれどその表情はいつも笑顔で、容姿からは想像もつかないややハスキーな声やたまに見せるボーイッシュな態度もチャームポイントだ。
彼女は誰にでも同じように笑顔で接する。
僕の様なうだつの上がらない人間にも優しい。
メニューと共に彼女が運んでくる水は、ただの水道水の筈なのになんだか凄く美味い。どこか遠い国の山麓で汲み上げた天然水の様にも感じられた。
僕がここに通うのは別にヨコちゃん目的ではない。もちろんカレーだ。短い昼休みを使ってカレーライスを食べに来る事が目的だ。そういう意味で来ているのであって後に続くやましいこと等何もない。
「ご注文決まりましたら、声をかけてくださいね」
ヨコちゃんは僕の前にメニューと水の入ったコップを置くとペコリと頭を下げ、またレジの方へと戻っていった。
頼むものは決まっているし、時間もそうそうある訳でもない事はわかっていた。けれど僕は、分厚いメニューを開いて考えるフリをした。
分厚い本の様なメニューは開いて数ページに飲食物が載っていて、残りはこの店の歴史やカレーの豆知識、昔どこかの新聞や雑誌で取り上げられたスクラップが収められている。長い時間さえあればこれをのんびり眺めながら飯を食う事だってできるが、そうもいっていられない。僕は前回読んだであろうページを適当に開き、その次のページを流し読みする。記事には「カレーは服についた時の取り方」が書かれていた。それによると水で軽く落として日光に当てると自然と消えるのだそうだ。
それだけ読むと僕は考えて決めた風を装い、レジ前に向かって声をかけた。
「あ、あの……」
声が裏返ってしまった。
それだけで僕はもう何も注文せず、この店から飛び出していきたい気持ちになっていた。
「あ、はい」
ヨコちゃんが傍らに立った。
「あのこれ、あの……」
僕は声を裏返してしまった恥ずかしさと、彼女が近くに来た緊張に心拍数を上昇させながら、メニューを最初の方へ戻して指差した。
「これを一つ」
注文一つスマートにできずにそこでどもってしまった。
「ビーフ角切りですね。お待ちください」
ヨコちゃんはニッコリ笑って――いたと思う。顔は直視できなかった――レジ前へ戻りながら厨房へオーダーを伝えた。
メニューは下げられなかったので、僕は赤面しながら改めて分厚いそれをパラパラと捲った。
繰り返すが、僕は彼女に会いに来たわけではない。ただ給料日後で余裕があったから、純粋にカレーを食べに来たのだ。
注文したものはそう時間もかからず運ばれてきた。
ライスを綺麗な円形で盛りつけた白い皿と、濃い茶色をしたカレーの入った銀色のカレーポットが置かれる。店内に漂うスパイスの香りが、この目の前に置かれたカレーにより更に強くなったように思える。傍に置かれた付け合せの容器に福神漬けやラッキョウは入っていない。玉ねぎの酢漬け――酢漬けじゃない気もする――に青い唐辛子の漬物がそれぞれに入っている。
カレーの中から牛肉の塊が少しだけ顔をのぞかせているが、それは後のお楽しみとして、まずはカレーポットに添えられた小さなおたまの様なスプーンでライスの中央にカレーをかける。
スープの様な水っぽいカレーなので一度に沢山かけると大惨事だ。
カレーはあっという間にライスの隙間を見つけて浸透し、皿の底へと流れる。そこを見計らってライス用のスプーンをカレーの色が付いたライスに差し込んで掬う。ライスが程よくばらけながらスプーンに収まる。それをすかさず口へと運ぶ。これをノロノロとしていると折角乗ったライスはどんどん崩れ、もといた皿の中へ落ちかねない。
まだ口にしていない煮込んだビーフの味と、この店独特の香辛料の辛み、そして鼻に抜ける爽やかな匂いが僕を包む。なんて格好つけて言いたくなるが、僕には文才なんてないし、味覚だって人に自慢できるものでもない。でも、兎に角うまい。これを食べに自転車を漕いできて良かったいつも思う。
一口の後、中央にスプーン一杯分程空いた窪みへとカレーを注ぎいれる。ライスが土手の役割をし、皿からこぼれるのを防ぐのである。ニ口目、そのまま三口目に突入したころ、口の中で最初の一口にはなかった辛みが徐々に増してくる。
ここではまだ肉の塊に手を付けない。
その前にカレーポットの底に沈んだジャガイモを引き上げなければならない。
この角切りビーフカレーに目立つ具はニつしかない。
一つは先程からずっと顔をのぞかせている大きめに切られたこのメニューのメインたる角切りビーフが一切れ。そして同じ大きさで切られ、そこに沈むジャガイモが一つのみだ。
僕はおたまスプーンでジャガイモを底から持ち上げ、ライスの上へしぶきを立てない様にそっと置く。うまくライスの上に座らせたらあとはスプーンで半分に割り、その上からカレーをかけてライスと一緒に口へ放り込んだ。
舌の上にジャガイモのざらっとした感触がカレーの辛さと共に口の中で遊ぶ。食いでのあるその塊を噛みつぶし、飲み込むまでのそう時間はかからないでいた。
口の中のジャガイモが消えかけるのに合わせ、もう半分を口に入れる。白飯をつけなくてもカレーそのままの味が付いているので気にならない。いや、寧ろジャガイモとカレーだけでも十分に成り立っている。カレーにジャガイモを入れたくないという話を働き始めてからよく耳にするようになったけど、これを食べている合間は、そんな事を考えている人間など存在していないのではないかと疑った。
ジャガイモがなくなり、いよいよ僕は残り少なくなったルーの中に沈む角切りビーフのサルベージにかかった。何時間も煮込まれているのか、肉は柔らかく、スプーンを少し当てるだけでその組織が綻ぶ。誇張しすぎかもしれないが、それ位柔らかい。
均等な感覚で筋の入ったその塊を完全に崩さない様に掬いあげ、飯の土手の中心にそっと置く。肉に絡んでいるカレーが皿の中にジワリと広がった。
そこで改めてスプーンで塊を上から抑える。肉はスプーンの侵攻にあっさりと陥落し、その身をシルバーの動線に逆らわず、ニつに割れた。
ここでも僕は残り少ない白飯に手を付けず、割れた半分の塊をそのまま食べる。折角のメインだ。まずは普通に食べたいといつも考えている。
先程のジャガイモも柔らかかったが、それはその上を行く柔軟性を帯び、カレーに広がり混ざっていた旨味はこの塊から出ていることがわかる。
身は口の中でほどけ、そして融ける様になくなっていった。
カレーの辛さはそれでも正気を失わず、しかしただその肉の塊が消えていくのをずっと見送っていた。鼻から抜ける牛の風味が消えてしまう前に僕は最後の塊にスプーンを伸ばした。こんどはカレーと白飯も同時に食べる。肉だけの存在感より、こちらの方がよりそのうまみが増すのを僕は知っていた。
その食感と味が、僕はカレーライスを食べに来たのだというごく当たり前のことを再認識させた。肉の脂がカレーの辛みの中で僅かに確認できる酸味を引きずりだし、それを一瞬で甘味へと姿を変えていく。
この不思議な感覚はこの一瞬一度だけしか味わえない。
だから最後の大玉として楽しみにとっておくのだ。
その余韻を楽しむ間に残りのカレーを皿にあけ、残りの白飯でそれを回収する。飯のスクラムは容赦なく崩れ、最終的にすべてを一斉に掬う事が容易ではなくなるが、慌てずに数回に分けて最後までスプーンを駆使する。
後は、カレーの放つほんのりとした辛さを楽しむだけだ。
完食までそう時間はかからず、僕の目の前には空になったカレ―ポットと中央がブラウンに染まった円い皿だけが残った。
コップに残った水を飲んでいると、食事が終わったことに気が付いたヨコちゃんが皿を下げる。
僕は彼女が取りやすいように体をずらした。
本当はもう少しこの満たされた気持ちをここに座って味わっていたかったが、そうも言っていられない。昼休みが終わるまであと十数分。自転車を漕いで蔵前の職場まで戻るのには、ギリギリの時間しかない。
僕は彼女が皿を下げ終わりレジ前に戻るのを見計らって席を立った。
「いつもありがとうございます」
会計の後、彼女はいつも笑顔で僕に言う。
誰にでもそう言っているのかもしれないが、僕はその一言がなんだか無性に嬉しくて、そして少しの恥ずかしさで胸の奥がむず痒くなっていた。
「あ、ああ。ごちそうさま」
爽やかに返そうと試みたが、またしても声が裏返った。僕は自分の顔が熱くなるのを、今しがたまで食べていたカレーの辛さのせいにして、早足で店を後にした。店のオレンジ色の明りは外のコンクリートの壁が立ち並ぶ中でとても暖かい色で店内を包んでいた。
あの店に何度も通っているが、僕はヨコちゃんと会話らしい会話をしたことがない。別に友人でも……男女のそういう関係でもなく、ただの客と店員の関係だから当たり前だ。けれど店でよく見かける客がテーブルに注文を取りに来た彼女とたまに楽しそうに話をしているのを見て、羨ましいというか、僕だって一言位は何か話しかけようと思ったこともある。
けれども、実際は何を話せばいいのか。彼女を目の前にすると、言葉が出てこなかった。僕は別に彼女と話をするために来ているのではなく、カレーがうまいから来ているだけなのだ。
話しかけられなかった時、僕は自分にそう言い聞かせていた。
あの店のカレーはうまい。それは揺るがないものだった。
しかし、それを前提として中にはヨコちゃん目当てで訪れる奴らも多かった。
あの顔と雰囲気で「いつもありがとうございます」と微笑まれたら皆悪い気はしないし、それが特別なものだと思うと、独り占めしたいと思ってしまうだろう。
だから当然、ヨコちゃんの下に「出過ぎた奴」が出てくるというのは必然だった。
例えば先月の半ばの事。店でいつものようにカレーを食べていると、会計をしていた男がポケットから何やら取り出し、ヨコちゃんに渡していた。
「自分、柄にもなく、こういうの書きました。ずっと悩んで決めました。ヨコちゃんへの自分の気持ち、受け取ってください」
ヨコちゃんは笑顔を崩す様子は微塵もなく、両手でそれを受け取る。それは白い封筒だった。あの感じだと、中身は大方ラブレターだろう。
確かに柄でもない。横に広がった体系に脂ぎったくせ毛で、センスのない襟の依れたチェック柄シャツの裾をジーンズに入れている男だ。
「それで今度、ここ……月曜休みじゃないっすか。月曜に……ヨコちゃんが前に好きだって言ってたバンドのライブの、チケットが取れたんです。よかったら一緒に、行きたい……行きませんか」
絞り出すような男の声は震えていた。
「ありがとうございます」
ヨコちゃんは笑顔で返した。
「けど、申し訳ありません。お気持ちは嬉しいんですけれど、私こういうのはお受けするわけにはいかないです。ごめんなさい」
彼女は男に頭を下げる。僕を含めた周囲の客は静まり返り、小さくかかっているBGMと外の喧騒がボリュームを上げたように思えた。
「それはアレですか? 自分がブサイクだからですか? なんで駄目なんすか?」
男は口早に、篭るような声でヨコちゃんに言った。
「私はここの店員です。それ以外の何者でもありませんから、ここにいる間は皆さんに給仕をするだけです。ですからプライベートなお誘いは、すべてお断わりしています」
ヨコちゃんは優しく男に言った。
「それに、外見について私からは何も言えません。中途半端に優しい事は、私には言えません。だからちゃんとお伝えします。ごめんなさい。あなたとは、いえ、ここに来られるお客様とはそういうお付き合いできません。そう決めています」
彼女は頭を深く下げ、彼に言ってのけた。
僕を含め客たちは口をぽかんとあけたまま、誰ひとり言葉も咳払いも発しなかった。
普通ならあり得ない事だ。仮にも男はよく見かける客だった。全員が見守る中で常連の誘いを断る等、性悪女のそれだった。
男は背中から力を失っていき肩を落とすと、一言ぽつり何かを小さくこぼし、項垂れたまま店を出て行った。
「ヨコちゃん、あれはさすがにないんじゃないの? 」
男が出て行った後、カウンターの端で見守っていた男が彼女に声をかけた。
この男も店ではよく見かける顔だった。
ヨコちゃんは少し困った顔をしてレジ前からそいつに言った。
「セキモリさんも知ってますよね。これまでもご好意を沢山頂いていますけど、さっきのサトウさん同様、お断りしてるんです。ひどい言い方かもしれませんが、私に深く関わるなんて時間があれば他に目を向けるべきなんです」
店の中は静まり返ったままだ。僕のカレーを食べる手も完全に止まっていた。
しかし「お騒がせして申し訳ありません」とヨコちゃんが頭を下げると、不思議と全員が一連の出来事を知らなかったように、再びそれぞれの行動を再開した。
僕も時間が残り少ないことを思い出し、急いで手元のカレーを流し込んだ。
そんな事があった日でも、レジ前のヨコちゃんは僕が会計を済ませ店を出る時、いつも通りの笑顔で送り出してくれた。
そんな事を目の当たりにした僕は罪づくりな女、ヨコちゃんのせいで店の評判が落ちて傾くなどという不吉な妄想もしていたが、それは僕自身の傲慢が導くただの妄想に留まった。
客足は途絶えるどころか安定しており、寧ろあの男同様、店内で彼女に言い寄る輩が目に見えて増えたのだ。常連たちの話をこぼれ聞いたところによれば、この前のあの出来事から始まったものではなく、ヨコちゃんが店に勤め出した時にはもう何件も同様のシチュエーションがあった様だ。その都度彼女は同じ言葉で断わり、断られた客は肩を落として店を出て行ったらしい。
不思議なもので、そういうのを目の当たりにしたからか「俺なら落とせる」とでも考えているのだろうか、告白する者が後を絶たないのだそうだ。更におかしなことにそんな見事に散って行った男たちも気が付けば普通に見せに来て何食わぬ顔で食事をしていた。
僕もあの現場を目の当たりにした後、暫く店に行くのを控えようなどと考えていた。しかし気が付いたら自転車であの店に向かい、そしてお馴染みの角切りビーフカレーを食べていたのだった。
それはあの店のカレーが、あの香辛料がそうさせているのか、ヨコちゃんに惹かれているのか最早判らなくなるくらい、僕の心は麻痺していた。
暫く経ったある雨の夜。友人と遊んで別れた後の駅裏で、僕は思いがけずヨコちゃんを見かけた。彼女はシャッターが閉まった電気店の軒下で立っていた。手にはビニール袋が重そうに下げられており、気の強そうな眼差しは、心配そうな顔の中で暗くなった空を仰いでいる。
僕は声を掛けようかどうしようか迷い、一度は通り過ぎた。しかし、なんだか放っておけない気がした僕は遠回りをして駅を一周した後、偶然通りかかった風を装って彼女の前に立った。
「こ、こんばんは」
彼女はふと見上げていた瞳をこちらへ向ける。
そして僕が店に通う客だと判ると、心配そうな表情を笑顔にして言った。
「あ、こんばんは」
こんな灯りの少なくなったうす暗い通りでも、彼女の笑顔は眩しかった。
「確か、お店にいらしてる」
「あ、はい。いつもどうも」
僕はかしこまって頭を下げた。
「いえ、こちらこそ、いつもありがとうございます」
彼女も頭を下げた。
「あっ……よく降りますね……そ、それでこんなところで、どうしたんですか?」
「買い出しにきたんですけど、お店の前に置いてた傘をとられちゃって、雨を避けながらこうして店まで戻っていたんです」
近寄ってみて分かったが、彼女の黒く長い髪と服は、雨で濡れている。
不謹慎にもそんな彼女の姿がとても色っぽいと思えた。
「あれ。それは酷いですね」
「ええ、でも大丈夫です。店まであと少しですし」
「そうですか……」
僕は答えながら「そうですかじゃないだろ」と自分を叱した。
咳払いをして人の目がない事を確認し、僕は彼女に言った。
「あの……その、店まででよかったら、これ使ってください」
僕は軒下に入り彼女に自分の傘を差しだした。
彼女は驚いた表情を見せた。
「いえいえいえいえ。そんなの駄目です。お客様のものを頂くわけには……それに、あなたが濡れてしまいます」
「いえ、ぼ……俺、明日休みなんで大丈夫です」
よくわからない言い訳をしてしまった。
「いえ本当、私の事は大丈夫ですから」
「いえいえ、ヨコちゃん。あ、すみません気安く呼んじゃって」
「いえ、皆さんヨコちゃんって呼んでいただいてますから、それは良いんです。けど傘を受け取るわけには……」
「ヨコちゃん、明日も仕事なんでしょう。風邪ひくわけにいかないでしょう。この様子じゃあ止むのはまだまだ先ですし」
それは本当だった。雨は先程から強さを増しており、とても小雨になる様子はなかった。
「あ、じゃ……じゃあ、あの……俺、通り道なんです。店の前の……向こう側に用があって……店まででよかったら入っていきます? あ、いや別に、疚しい事も怪しい事もありません」
最後のは余計だった。ますます怪しいし疚しい下心があるんじゃないかと思われてしまうじゃないか。僕はそう心の中で悔やんだ。
「そうですか」
僕は彼女の発した一言の次を「でもごめんなさい」と予想していた。なににつけても告白してくる男たちをばっさばっさと切り捨てる子である。ここで断られたら大人しく引き下がるのも仕方なし。そう考えていた。
「じゃあ……お言葉に甘えて」
「ですよね、そうですよね。駄目ですよね」
「えっ、何がですか?」
「え?」
僕は自分の口にした言葉と彼女の答えを疑った。
「今何て……」
「店の方が通り道なら、お言葉に甘えて入れて貰えればという事だったんですけど」
「あ、ああそうですよね。駄目じゃない。駄目じゃないです」
僕は慌てて彼女に返した。
彼女はクスっと笑った。
「あの……それじゃあ、どうぞ」
「はい。よろしくお願いします」
ヨコちゃんは僕が差し出した。傘の半分に入り、小さくお辞儀をした。
そこからヨコちゃんの店まで歩いた。自分から言い出した事だが、僕は自分を褒めると同時に後悔もしていた。安易に誘ったもののこんな相合傘で、こんなに近くに女に人がいる事などめったになく、終始心臓の鼓動は早く大きくなった。
何を話せばいいのか、寧ろ何か話をしてもいいのか、分からないでいた。
兎に角、間が持たない。雨は強く路面を叩き付け、歩く僕らニ人の足元を湿らせた。
「降りますね」
何とか振り絞って出た言葉がそれだけだった。
「そうですねぇ」
彼女が答えた。
そこから次の言葉がなかなか見つからなかった。
「あでも。来週あたりには梅雨も明けるってなんかテレビで言ってました」
「そうなんですか」
そこでやりとりは一旦止まってしまった。
雨と闇は一層その幕を色濃くさせ、時折地面に溜まる雨水を切って走る車の音とヘッドライトが、僕たちの横を通り過ぎて行った。
「そういえば」
次に口を開いたのは、ヨコちゃんからだった。
「いつも名入の上着を羽織っていらっしゃいますよね。この辺りにお勤めなんですか?」
「あ、いえ。職場は蔵前なんです。あの蔵前警察の通りを曲がったところの。昼休憩で自転車を使えばすぐに来られるので……その、カレーおいしいですし」
「ふふっ。ありがとうございます」
「あの俺からも聞いていいですか」
「なんでしょうか」
「その、あれです。何でヨコちゃんはその……沢山の人の告白を断っていますよね。あれってその……もう相手がいるとかなんですか? って聞いてみたり……ははは」
僕の声は震えていた。それは雨で体が冷えたのでは断じてなかった。
彼女は僕の問いにそれまで灯していた笑顔を消し、それでも進む方向から目をそらさず、口を開いた。
「お答えはできません。ごめんなさい。と言いたいところですが、私だけプライベートな事を聞いてしまって何も話さないというのはフェアじゃないですから、お答えします。私は男の人とどうこうなるというのは無理なんです。皆さん、私の外見や仕草に好意を抱いていると仰いますけど……いいえ、それは凄く嬉しいんです。けどどうしても、そこでお付き合いをするというのは、私にとってたまらなく無理なお願いをされているのと同義なんです。彼氏はいません。これから作るつもりもありません」
「理由はなんなんです」
「聞いてどうするんですか?」
ヨコちゃんは僕から少し肩を離した。僕は彼女が濡れない様、ヨコちゃんの避けた分だけ傘を持つ手を伸ばした。
「いえ……すみません。ただ何となく、気になっていたんです」
「ごめんなさい。誰であれ、そこは申し上げられません」
会話はそこで再び止まってしまった。
次に彼女が口を開いた時、店まであと十数メートルのところだった。
「肩、濡れちゃってますよ」
「あ、すみません」
僕は慌ててヨコちゃんの方に傘を傾けた。
「あ、いえ。あなたの肩です」
彼女はそういうと傘の縁をつまみ、僕の方へ少しだけ押し戻した。
「あ、どうも……すみません」
「謝らないでください。元々私が無理言って入れさせてもらってるんですから」
「いえ、すぐそこですし。少しくらい濡れても問題ないです」
僕は頭をかきながら答えた。
店の前につくと、彼女は小走りで赤い庇の下へ駆け込んだ。
僕は店の前に立って、それを見送った。
「本当にありがとうございました! 助かりました」
「あ、いえ。じゃあ僕はこれで……」
「あの!」
立ち去ろうとしていた僕にヨコちゃんが声を掛けた。
「あの……先程はすみませんでした。でも、私……」
「いや、いいんです。俺も変なこと聞いちゃって、すみませんでした。じゃあおやすみなさい」
僕は何か言いかけたヨコちゃんの言葉を遮ると、足早にその場を離れた。
何か聞いてはいけない事を伝えられようとしたのではないかという不安と、再び来る事はないであろうチャンスを逃したのではという悔恨を頭の中で回し、僕は振り続ける雨の中を末広町方面へ向かって歩いた。
ヨコちゃんが店に立たなくなったのは、その夜から数日後だった。
次の日も、その次の日も。夏が終わって銀杏が葉を散らし、記録的な積雪が都内に降っても、彼女がレジ前に姿を現すことはなかった。レジ前には厨房にいた者が代わる代わる立つ事となっていた。
そして春が見え隠れし始めた頃、店には初老の男性が勤め始めた。
新しいバイトか何かだと思っていたが、全く違った。彼は店のオーナーであり、次のバイトが就くまでレジ前に立っているそうだった。
ある日、客が僕だけになった時にオーナーへ話しかけてみた。
「あの、去年までいたあの……ヨコちゃんって、辞めちゃったんですか? 」
「ん? ああ、横手君ね。彼、結婚することになってねぇ、相手の実家の家業を継ぐことになったからって辞めちゃったんだよ」
僕はその事実にショックを受けた。
「彼、人気者だったし、いい子だったから、このまま社員になって勤めてほしかったんだけどね」
「そうなんですか……」
僕はそこで漸くショックの中で感じた違和感に気が付いた。
「あの、すみません……今その……彼? え、ヨコちゃんの話ですよね?」
「そうだけど? ああ、君も知らなかったの? 横手君はれっきとした男の子だよ」
僕の頭はその言葉に処理が追いつかなくなっていた。
そんな筈はないだろう。あんなに綺麗で可憐で小柄で笑顔が素敵で皆が恋焦がれていた子が、男の訳がないだろう。
「常連さんは皆知ってると思ってて、彼に面白がってプロポーズしてるものだとばかり思っていたよ」
そこで僕はオーナーから口外するなと念を押された上でヨコちゃんの話を聞いた。
彼はもともと男だった。けれど心は生まれたときから女の子だったそうだ。心が女でも、男性を好きになれず、女性を求めてしまう性癖も持ち合わせてしまっており、今までもその曖昧な自分に悩んだ結果、出来る限りの方法で女性らしい恰好をして世間様に女性としてみて貰おうとしていたとの事だった。
作った外見で女だと認識されても男を好きになれない彼は、僕が今まで見聞きしたあの振り方で次々に断わりを入れたそうだ。そこへきて田舎の両親が持ちかけた縁談があり、そのまま実家に帰って女性と結ばれたというのが真相だった。
なんとも幽霊の正体見たりではないが、とんだ枯れ尾花だ。
僕はあの日彼女――いや、彼か――が言いかけた時に抱いた不安が、その真相の為だったのではないかと勝手に解釈し、未だ胸の奥で広がっている混乱を紛らわせるため、皿に残ったカレーをスプーンの先でなぞった。
*ふたたび、現代*
そんな事をふと思い出し、こうしてこの街に降りてみた。
何故今この瞬間に思い出したのか、理由は分からない。
ただわかるのは腹の虫が鳴っており、久しぶりにあの店でカレーを食べたくなっているという事だ。
街の表は変わっても、この店の佇まいは相変わらずで、開いたドアの奥では、アジア系の女の子が片言の日本語でオーダーを伝えている。僕はふとレジの前にあの赤いバンダナを頭に巻いた笑顔があるんじゃないかとありもしない期待をしながら赤い庇をくぐった。
注文するのは勿論、ビーフ角切り。
僕の好きなメニューだ。
〈了〉