つーがく
通学時間が長いことは、人にとって大きなストレスである。自分が意思決定に係わらない移住によって、あるいは生家の位置によって、通学時間の長短は左右される。家選びはシミュレーションの連続を要するもので、その際に考えるのが『どこに近いのがよいか』ということである。たとえばスーパーマーケットに近ければ雪の日でも風が強くても僅かな苦労をするだけで買い物ができるとか、病院(診療所)に近ければ急に具合が悪くなっても余力で医者のところまで辿り着けるとかだ。このとき生涯にわたって利用する(であろう)施設の優先度は高く、利用頻度の低い、あるいは一定期間終了後には一切使わなくなる施設の優先度は低い。学校は、後者である。小学校や中学校は徒歩で行ける距離を学区として指定されるが、高校からは自分で選択することができる。しかし偏差値や校風、部活動などの要素は決定において非常に重要であり、通学時間が短いだけで決定することは極めて危険である。それは通勤も同じだが、ここでは通学に限って話をしたい。
臣川尋は今日から高校生だ。入学式を前にオリエンテーションがあるということで学校に行かねばならないのだが、学校見学は親と、受験は友人と一緒に行ったので、一人で登校するのは今日が初めてだ。周囲に新高校生はいるが、彼彼女はどこか自信と期待に満ちていて、通学に慣れた上級生や大学生に遜色ない余裕を見せている。それとは対照的に、尋は初めての孤独な登校に緊張している。夜はよく眠れなかったし、朝は寝坊して朝食をとっていないし、排便もしていない。この電車を逃したら遅刻するという電車になんとか間に合ったが、トイレに行く時間はなかった。
ドアが閉じて電車が発進すると、淡々としたアナウンスが流れ、タタン、トトンと音をたてて電車が進む。自宅の最寄駅から学校の最寄り駅までは五駅。見積もり時間は約二十分だ。中学校の授業中にトイレに行きたくなったが教師が厳しいせいで言い出せず、三十分も我慢した経験がある尋には楽な課題のように思えたが、環境の違いは彼の余裕を砕いた。
最初に彼に訴えたのは尿意のほうであった。焦っている時の排尿はキレの悪いもので、出切っていないような残尿感を与える。それが電車の揺れと慣れない環境に対して抱く恐怖心のようなものを喚起し、尿意を再び呼び覚ましたのだろう。しかしこれなら耐えられる。我慢して出したときの快楽は同格のものが少ないくらいで、神に感謝するくらいの幸福を感じさせる。それを目的に我慢をしてもよいくらいだ。他のことを考える余裕があるので、先日買ってもらったばかりのスマホで有名人のブログを見ながら電車が目的の駅に着くのを待とうとした。隣も周りもみなスマホに夢中で、片方で吊革を、もう片方でスマホを見ているから、痴漢をしない。数年前までずっと叫ばれていた痴漢撲滅は、スマホという女の身体以上に魅力的なものによって達成された。いや、未だ痴漢は撲滅されていないが、件数が減ったのは事実である。
『次は香橋です。お出口は左側です。東京ウェストラインはお乗り換えです』
よく”ドア横キープおじさん(おばさん)”という出入り口付近を占拠する迷惑な客がいるが、やはりこの電車にもその人はいる。そのせいで乗降客がスムーズに出入りできず、発車が少し遅れた。これで学校に遅刻したなら、シャレにならない。憤りが身体に及ぼす影響は大きく、腹がグルと鳴って蠕動した。このとき尋はゲームの二択画面が視界に見えていた。
1.降りてトイレに行く
2.降りずに我慢する
浮かんでいるうちに電車は動き出し、尋は2を強いられた。僅かに便意も主張を始めたが、まだ我慢できる程度だ。右手で吊革を掴み、左手でスマホを操作する多くの人に混じって電車の到着を待つ尋は、自分の正面に座っている男性が落ち着きなくポケットのスマホを出し入れしたり、鞄の手帳を見てすぐしまったりしているのを見て察した。
(この男性はトイレを我慢している)
苦しそうな表情をしたり、少し腰を浮かせて汗ばんだ肌を冷ましたりしている様子は、見ている尋にも苦しみを与えていた。共感こそが彼へのダメージであり、彼の腹は憐みに満ちた悪意をもって尋の腸の蠕動を促進した。瞬間、尋を強烈な便意が襲う!
(うっ...!)
尋は咄嗟に肛門を締め、漏れ出ることを防いだ。腹がギュルっと不機嫌な音を鳴らし、尋の抵抗を責めた。顔と尻から嫌な汗が出る。駅はまだ二駅目だ。ここで降りようとした尋だったが、巨漢が行く手を阻み、降りる前に乗車客が殺到したせいで出ることができなかった。ここで尋に強烈な怒りが込み上げた。人口は今の半分、いや、四分の一でも足りるはずだ。兎角、ここには人が多すぎる。不要な人も中に入る。そいつらが全員今すぐ消えれば、おれは助かる...そう思いながら、便意と強まった尿意を堪える。次の駅では降りよう、そのために人をかき分けてドア付近まで至った。限界が近づいている時は、トイレに間に合うことだけしか考えられなくなる。たとえテロリストが隣で包丁をちらつかせていたとしても、絶世の美女が服を脱いで裸を晒していたとしても、トイレに間に合うことだけしか考えられなくなる。漏らしてでも欲しいものは、目に見えないものが多い。おそらく尋が相応しいと認める対価は、六億円くらいだろう。
(やっばい...!)
我慢していた男性のことも考えられなくなった尋は、目の前の客を押し退けてでもトイレに駆け込む意思をもって到着を待った。が、ここで無情なアナウンスが流れた。
『この先揺れますのでお立ちのお客様はご注意ください』
揺れは耐久力を大幅に削ぐ敵だ。尋はあらゆる手段を尽くして揺れを吸収する体勢になり、ガタンという急な振動に耐えた。尻からは汗なのか肛門を抜けた汁なのかわからない液体が漏れ、下着を濡らした。この不快感から解放されたなら、昨日友人が遊びの約束に遅れたことくらい許せる。
(くっ...まだか...!)
この辺りで恥じらいがなくなり、便意を周囲に伝える行為に躊躇いがなくなる。周囲がそれを察してドア前を譲ってくれることに感謝し、到着とともに駆けだ...せない。既に限界寸前の便意と尿意とを持つ尋は、少しの衝撃も許さぬ歩行でトイレに向かった。もうすぐ自分はこの苦痛から解放され、本来自分がいるべき天国に戻れる。
しかし、運命はそう簡単に尋を幸せにはしてくれなかった。ハブ駅ではないこの不人気の駅にはトイレが大便器が二つしかなく、どちらも同じような状態の利用者によって占められている。絶え間なく聞こえるブリブリの音は、出している人に取っては快感の音かもしれないが、順番待ちをしている人にとっては地獄の音色である。尋の前には一人、中年男性が立っている。彼は尋より余裕がありそうに見えるが、大人だから仕草を抑えているのかもしれない。一分一秒がえらく長く感じるもので、小便器はさっさと入れ替わるというのに、大便器はまったく入れ替わらない。誰に怒ればよいのかわからないまま、ひたすら漏れそうなのを抑えている。高い金を出して買った制服を汚すことも、高校生活一日目での失態も、今後を見据えると避けたいところだ。いや、誰にも見られず、替えの服と密閉できる袋があるのなら、漏らしても処理を済ませて家に帰り、数日の休みと引き換えに清潔になればよい。だが、そんな準備をする時間はなかった。最初から遅刻上等で排便を済ませてから来ればよかったのか?前の駅でデブを突き飛ばしてでもトイレに駆け込めばよかったのか?いや、それは今判断するべきことではない!
目を泳がせたり、腕を抓ったりして紛らす尋に、一つ前向きなことが起きた。片方の大便器が空いた。満足げな表情を浮かべたサラリーマンの男性がハンカチを取り出したのと入れ替えに、前に並んでいた男性が動き出した...と思いきや。
「先入る?」
神はこの世にいたのだ。尋は今後この人に降りかかるあらゆる不幸を払うために生きようと思った。そして、早口にこう放った。
「ありがとうございますマジで」
ベルトは既に外していたし、チャックも下ろしていた。するりとズボンをパンツごと下ろした尋は、跳ねた尿やらなんやらにズボンの裾が触れているのも構わずに思い切りぶっ放した。間に合ったなら幸福で、地獄に思えた便意と尿意はこの快感のためのスパイスだ。
「おぁぁ...」
和式便器でも構わない。尋は溜まっていた分を出し切り、尻を拭いて僅かに濡れたパンツをズボンごと穿いてレバーを押した。
「ふ~...」
譲ってくれた神は隣の個室に入った。尋は心で感謝し、最大の幸福が訪れるように祈って手を洗い、プラットフォームに戻った。電光掲示板の隣の時計によれば、学校の始業時間には間に合わない。尋はそれでも幸福に満ちた顔をしていて、三分遅れた電車を赦した。その後は何事もなく学校に到着し、校門で待っていた教師に招き入れられて校舎に入った。昇降口には数人の新入生がいて、そのうち一人の男子が同じ教室の前で止まった。
「...便所?」
「...うん」
男子生徒は『お前もか』というように笑い、尋の肩を叩いた。尋も笑顔になり、仲良く教室に入った。まだ来ていない生徒もいたので、オリエンテーションは五分遅れで始まっていた。そのため、重要な部分を聞き逃さずに済んだし、遅刻という罪は赦された。
漏らしていたら、こうはならなかった。我慢は良い結果を齎した。尋はこの日のことを忘れないだろう。オリエンテーションのときにも、その後にも、同じ境遇を耐え抜いた男子生徒・柳瀬京太郎は尋の高校での初めての友人となった。
これがお笑いコンビ・ペイシェンス結成のきっかけである。