ウォーカロイドは神を殺すことにした
私は苦渋の決断の末、神を殺すことにした。
神が『全てが間違った方向へ進んで戻れない』と言うから。
生まれたばかりの私は、いや実際は三十三回程生まれたが、腕に抱く生きてた彼女を何度も何度もなぞる。
シェルで覆われた白銀の回廊を歩きながら『ゆりかご』を目指す。
ドーム越しに燦々と降り注ぐ陽光を久しぶりに浴びた。
透過されたシェルガラスに向かってかざした手を握ったり開いたりして、小さくなっている己の体を改めて見直す。
異常はどこにも見受けられないが、何となくこれが癖になっていた。
現在の小さな手のひらと、あと数ヶ月後の大きな手のひら。
どちらも自分のものに違いない。
短期間で成長するそれらを知覚し、思いを馳せることが出来る生き物は他にいるのだろうか。
『ゆりかご』を出てから、ここに来るのは初めてだ。
肉体の再生と復活を繰り返させる『ゆりかご』。
光と水と塩と酸素と電気と、僅かな樹脂に似た成分で出来ているソレは、虹色の巨大な球体。
表面はゆらゆらと揺れていて、時々飛沫があがるが、液体が一滴でも溢れたことはない。
今日もウォーターシエル、『エデン』の中心で命をあやしている。
私はそこから数ヶ月前に三十三回目の生を受けた。
三十二回分の生きていた時の記憶は完璧に覚えている。
前回も前々回も老衰。今回もきっとそうだろう。
このルーチンワークは絶対的であり、安寧でもある。
人が死を恐れる必要がなくなってからもう随分と経つ。
代わり映えのない人生のループは、実を言うと少し退屈だ。
三十三回目の時のことを思い出してみよう。
生まれたばかりの私は、水に濡れた全身を犬のように震わせて雫を飛ばす。
おぼつかない足取りで、よたよたと進む。
空気を吸い込むと声帯が揺れ、酸素が脳と肺に達するまで何度かむせる。
出迎えてくれた仲間たちが、微笑みながら、私を優しく毛布に包んで水滴を拭いてくれた。
そこから完全に歩いて動けるようになるまでは、対してかからない。
成長は常に最適化されている。
水の都、貝殻の中に作られた私達の世界。
『ゆりかご』を中心として、いくつかの区画があり、私は比較的外側に近いエリアに住んでいた。
どこにいても、それぞれの区画をつなぐ回廊を歩けば海中は見れるが、私は広く、大きな本物の海が見える壁のほうが好きだった。
なんとなく懐かしい気持ちになるからだ。この気持ちはどこから来るのだろう。
ドーム状になっているシェル壁の透過スイッチをオンにすれば、深緑の水草と、鮮やかなピンクや黄色、青や白のサンゴ礁と銀色に反射する魚達の群れ。
シェルの周りを取り囲むドームは太陽光を増幅させ、周りは深海とは思えない程の光が降り注いでいる。
探索用アンドロイドの人魚が1匹、こちらに気づき、手を振っている。
下半身の魚部分の、薄い水色に紫色のパールがかったウロコは、角度を変える度に、万華鏡のごとく違う表情を見せる。
「探索機が、どうして人魚なんだろうな」
こちらの言葉など意にも返さず。
人魚に手を振り返せば、クスクスと笑いながらくるりと回って、尾びれで海中に砂を巻き上げると、また周囲の群れへ戻っていく。
「よう。人魚が何か見つけたようなんだよ。知ってるか」
人魚たちをぼうっと見つめていると、いつの間にか隣に並んでいた背の高い赤毛の男が私に声をかける。
頭の中の、情報の共有を新しく更新すると、探索項目が光っていた。
「新しいシェルの素材かな?」
「いんや、あれは何だろうな。古いシェルターみたいなんだが俺達じゃあ近寄れない」
「珍しいね、シェルターはこの辺りにはもうないと思ってたけど」
視界に情報パネルを出すと探索項目を詳しく開く。
「海底の落盤……」
「古すぎて中に人がいる可能性は低いが一応探索続けるってさ。それはそうと早くでっかくなるといいな」
思わず肩をすくめる。
私の体はやはりまだ人から見ても小さいのか。
「まあそんなに長くかからないよ」
「そうだろうな。健康が一番だ。病気がある時代があったなんて想像ができないぜ」
男は豪快に笑いながら、私の頭を軽く何度か叩くと、またな、と言って大股で去っていった。
病気があった時代。痛みが存在していた時代。感情が磨かれていなかった時代。
確かに、そんなものは想像ができない。ないものは想像のしようがないから仕方ないのだが。
痛覚も、悲しみや苦しみや憎しみや妬みといった様々なマイナスと呼ばれる感情を持たずに生まれてきた私達はウォーカロイドと呼ばれる。
人は人のきれいな部分だけを集めて新しく生まれることにしたらしい。
この海中都市も、ある美しいおとぎ話を元に設計されたというのだから、なんだか不思議な気分になってしまう。
「ライブラリでおとぎ話、とやらは見つかるだろうか」
膨大な数を誇る電子書籍は、ピンポイントで欲しい情報を引き出す時は有り難いのだが、ふんわりとした検索をかけると途端に凄まじい数がヒットするから使い所が難しい。
そこから目的の物を絞っていく労力を考えると、まあ由来は知らなくてもいいかな、と思ってしまう。
都市に関する情報は正直、あまり残っていないのか、誰も興味がないのか、あるいはその両方かであやふやになっている。
真面目に調べる学者も中心部に行けばいるのだろうが。
かつて人は傷つき、嘆き、死を迎えることが出来たという。
かつて人は一度きりしか生を受けることが出来なかったという。
とうの昔に失われた、というより捨て去った機能。
永遠に続く幸せを約束された私達の世界。
幸せの基準は跳ね上がったのだ、ということは予測できる。
だが……当たり前の物は有り難みが薄れてくる。
私たちに今できることと言えば、痛みはないが、目に止まる傷がつけば『ゆりかご』の中へ戻り、人工羊水に揺られ眠ること。
起きる頃に傷はすっかり治っている、傷がつくことなんて滅多にないけれど。
肉体の細胞は時が経つにつれて古くなっていく。
見た目は変わらないが、体内の時計は進んでいくようだ。
本来の時計は1周回って2周回って……規則正しく刻んでは戻る。
実際には刻んでも戻ってもいないのかもしれない。
アナログもデジタルも時計と名のつく物はいっそのこと全部捨ててしまっても構わないとも思う。
体の寿命すらリセットできるのだから。
体の寿命が来ると、意識は一度『ゆりかご』に転送され、新たに肉体の復活を待つ。
『ゆりかご』は肉体をドロドロに溶かして、新しい肉体を生成してくれる。
そして再生の時を迎え、この世に再び生を受ける。
ただいま、とおかえり、を愛すべき隣人たちと分かちあう。
……ほら、やはり、止まっているではないか。
思考を停止して、海中のきらびやかな景色に癒やされていると、出しっぱなしにしていたパネルが再び点滅している。
「また探索項目、人らしき物体を発見……?」
画像データが送られてくる。
映っていたのは幅二メートル、高さ八十センチ、奥行き九十センチの鉄の箱だった。
成分表には鉄や冷凍処理に使われている物の他に人体を構成する物質が多数含まれている。
箱がアップにされた二枚めの画像をさらに拡大する。
――箱には私達が必ず教えられる名前が刻まれていた。
「Eve、博士?」
「……『ゆりかご』の設計者か」
仲間達は盛り上がっていた。
あの博士が見つかったのだ。
私たちの命を支えてくれる物を設計した人物。
感謝してもしきれない、というわけだ。
しかも人魚のスキャンによると、眠っているだけで体に損傷はないらしい。
早速、引き上げてお出迎えしよう、ということで話はまとまった。
一週間が経った。
人魚による引き上げ作業も終わり、『ゆりかご』の前で私達は博士を出迎えようとスリープ装置を囲んでいた。
科学者の調整が終わると、箱は空気の漏れる音を出しながら、ゆっくり開いた。
千年のコールドスリープから目を覚ました『ゆりかご』プロトタイプの設計者である彼女は、出迎えた私達と『ゆりかご』を何度か見比べる。
きれいな金髪の女性だ。データ画像よりずっと美しい、と思った。
「人魚たちにちょっと似てるなあ」
「こら、失礼なことを言うんじゃない」
つぶやく私に隣の女性が小突いた。
スリープ装置から出て、戸惑っているような博士に、科学者が声をかけた。
「博士、おはようございます」
「あなた達は……これは?」
『ゆりかご』に向かって博士が指を指す。
「あなたが設計した物ですよ。もっとも改良は何度もされていますが。あなたのおかげで私達の暮らしは随分と安定して長いのです。これを見て下さい」
科学者が博士にデータが流れるパネルを見せる。
パネルに触れる白く長い指。
時間が立つにつれて、博士の顔色が段々変わっていく。
ただでさえ白い顔が、青色に、というよりは蒼白だ。
「こんな、こんなはずでは、なかった……」
「私のせいで世界が、人が、永遠に失われてしまった――」
いきなり目から沢山の水を流して、床に崩れ落ちる博士をみても、それがなんという現象か理解できなかった。
私達は顔を見合わせる。皆が心配しているのが一瞬で分かる。
「お体の具合が悪いのですか? あなたの設計された『ゆりかご』は完成しています。一度中へ入られたらいかがでしょうか」
私達の中で一番年を取っていて、何でも経験している男性が前に進み出ると彼女を背中をさすった。
彼女は動揺していて、会話も上手く出来ないようだったが、男性の手を振り払い、私達から距離を置くように後ずさると頭を振り続ける。
水のクッション製の温かい床の上で、自分の体を抱きしめ、歯をカチカチと鳴らしながら、しばらく座り込んでしまった。
どうすればよいのか、誰も分からない様子だった。
こんな風になっている人間を見たことは誰もないのだ。
私はでしゃばってはいけない、と思ったが、体は自然と周りの者をかき分けて博士の元へ向かう。
「博士……」
「ゆりかごには入りません」
声をかけるが拒絶されてしまう。さらに距離が広がる。
彼女は張り付くように壁にぴったりと背をつけていて、どうしたものか。
明らかに体調が悪いようだけど、無理強いはしたくない。
もう一度じっくりと彼女を見る。
精神的な動揺による脈拍・心拍数の上昇は見られるが、ソレ以外の、コールドスリープから目覚めた弊害というものはなさそうだ。
筋力が落ちているのが少し気になるけど。
「あの、ゆりかごには入らなくてもいいです。まずは温かい物でも飲みませんか」
一メートルほど離れた位置からそっと言ってみる。
博士は私の声に反応して、じっくりと私を見ると声を落とす。
「……まだ小さいのね」
確かに、まだ身長は伸び切っていない。博士は見ただけでそんなことが分かるのか。
「はい、まだ成長しきってません。でもそのうち大きくなりますよ。博士は凄いですね」
「見ただけで成長が分かるんですか?」
「え? そういうことじゃ……」
ポカン、とする博士に私は失礼なことを言ってしまったのだろうか。
「……何か失礼なことを言いましたか」
「いいえ。何も言ってないわ。そんな顔しないで」
そんな顔、とはどんな顔なんだ。
笑いはじめた博士を見て、まあいいか、と思うともう一度私は言った。
「お茶をいかがですか」
「いただくわ」
私の差し伸べた手をとって、立ち上がる。博士の手はとても温かかった。
仲間たちもホッとした顔をしている。
その日から博士は私と暮らすようになった。
博士は、なれない暮らしに初めは戸惑っていた様子だったが、段々慣れてくるとよく科学者達の元へ行った。
帰ってくると私とよくその日にあったくだらない話や博士が生きていた頃の話をよくした。
「博士、この都市は何のおとぎ話をモチーフに作られたか知っていますか」
「子供が敬語なんて使わなくていいのよ。もっと気楽に話して」
それは無礼に値するんじゃないだろうか、とも思ったが博士が言うならそうしよう。
子供ではないが。何度否定しても博士は取り合ってくれないのだ。
「そうね。ウォーターシエルにはモチーフがある。海底を選んだ理由は環境的な面が強いけど、設計を担当した人は人魚姫、というお話が好きだったのよ」
まさか本当にこれだけ忠実に作り上げるとは思わなかったけど、とクスクス笑いながら続けた。
「それはどんな話?」
「悲恋よ。嵐の日に人間の王子様を助けて恋に落ちた人魚が地上へ行くために魔女と取引をするの」
何やら聞きなれない単語がたくさん出てきた。確か、王子というのは位を指すものだったか。
それよりも……。
「アンドロイドが恋をする?人間に?」
「馬鹿ね、その時代はアンドロイドなんていないわよ。人魚は架空の生物だったの」
博士は膝を叩いて爆笑している。私は恥ずかしくなった。
よくよく考えれば人魚は確かに架空の生物だ……。
あまりにも身近に人魚型アンドロイドを見ているので、ついその気になってしまった。
博士が話を続ける。
「人魚は地上に出るために足を手に入れたの。その代わりに美しい声と、歩く度にナイフで抉られるような苦痛を代償にね」
痛み。私達とは無縁の存在。
どんなものか体験したことはないが、良い物ではなさそうだ。
赤毛の彼ではないけど、出来ればこれからも体験したくない。
「私達には痛い、が分からない」
「……そうだったわね。歩くのがとても大変なことになった、と思って頂戴」
『ゆりかご』から出たばかりの光景を想像する。
誰もが最初からきちんと歩けるわけではないことを考える。
「それで、それでね。王子様に助けたのは自分だと伝えようとするけど声が出ないから伝わらない。王子様は浜辺で介抱してくれた女性を命の恩人だと思ってしまうの」
「普通はやってもらったことを忘れないのが人間なのに……」
記憶能力が低すぎやしないか。
考察する力も足りてない。
嵐の中を普通の女性が泳いで助けられるわけがないのに。
「あなた達とはちょっと違ったのね。恩知らずなのよ、きっと」
博士は笑いをこらえているのを隠すように口元をおおう。
金色の髪が小刻みに揺れる。
いつもは凛としている彼女が笑うと途端に可愛らしくなる。
「そのうちに隣国のお姫様と縁談が持ち上がってね。人魚は王子の愛を得られなければ、海の泡となって消えてしまう。悲嘆に暮れる人魚の前に人魚の姉妹が現れて言うの」
これは随分と酷い話ではないか。そんな話が私達の都市のモチーフになっているのか……。
なんだかガッカリだ。海の都にはもっとクリーンなイメージがあったから余計に。
「『魔女と取引をしてきた。この短剣で王子を殺せば人魚に戻れる』って」
殺す、という単語にギョッとする。
そんな汚い単語が博士の口から出るなんて。
私は聞いて良いものか迷ったが、なんともない顔をしてこちらを見ている博士がいたので、どうとでもなれと続きを促す。
「……人魚は王子を殺したの?」
「いいえ。殺さなかった。愛する人を殺すぐらいなら海の泡になることを選んだ」
歌うように彼女は語る。
海の泡になった人魚。
愛することは分かち合うことだ。
お互いを尊重し、完璧に理解し合うことだ。
それなのに……。
「王子は酷い人ですね」
「素直ね、あなたは。顔にすぐ出る」
私は自分の顔を触ってみるが、よくわからなかった。
「この話には続きがあるのだけど、それはまた別の日にしましょう。もう遅いわ」
いつもの眠る時間を過ぎてしまっている。
「また話してくれる?」
「いいわよ。その代わりお願いがあるの」
「お願い? 何?」
私が聞けるようなものだといいけど。
「私のことはイヴと呼んで。名前で呼ばれないのは寂しいわ」
寂しい、という博士の顔を見ると頭の中をピリッとした感覚が走る。
一瞬で消えてしまったその感覚に少し驚いたが博士と話すことを優先した。
「私達は名前を呼ぶ習慣がないけど、博士がそう言うなら」
「ええ。ありがとう。呼ばれないと、自分の名前を忘れてしまいそう、なんておかしいわね。」
「さあもう寝ましょう。おやすみなさい」
パネルを操作してイヴが光を消す。
「おやすみ、イヴ」
その日の夜は、珍しく寝付けなかった。
イヴが来て一ヶ月が経った。ある一区画で、イヴの講義が行われていた。
私達を集めてイヴは毎日、たくさんの事を話した。
「昔は宗教というものがあって、殆どの人は神様を信じていたの。神様は苦しみから人を救ってくれる最後の受け皿だった。私はキリスト教徒だったわ」
宗教の話をよく聞いた、私達は神という存在がいるのならば、それは『ゆりかご』を造った彼女だろうと結論づけた。
最近よく考える。人魚の話もそうだ。
苦しみとはなんなのだろう。生きていく上で本当に必要なのだろうか?
苦痛の代わりに得るものは、代償の割に少ない気がしてならない。
イヴは隠しているが、毎晩、電気を消した後に泣いている。
声をかけても大丈夫よ、起こしてごめんなさい、と言うばかりで一向に解決しない。
そんな時は決まってイヴが眠るまで隣にいてあげることしか出来ない。
イヴが『苦しんでいる』状況を見るとやはり、苦痛や悲しみはいらない気がする。
私達は傷ついても治るし、大昔のように争うこともなければ、自然災害が訪れる時には眠りに付くので、防衛本能も必要ない。
「喜怒哀楽、あなた達には怒と哀がないわね」
私達を前に、イヴはやはり悲しそうで、私はどうすれば彼女が喜んでくれるかを必死に考える。
きれいな花や貝殻、彼女の生まれた世界には無かった珍しい学術書などもプレゼントしてみた。
イヴは眉をハの字に下げて笑い、私を抱きしめて、『ありがとうね』というだけ。
「あなたはまだ小さいのに偉いわね」
このフレーズはよく使われる。
私は確かに、まだ百五十センチ程しかないのだけど。
そのうち大きくなるだろう。ぴったり一七五センチに。
ある日、講義から帰ってきたイヴは唐突に言った。
「名前をつけてあげる。あなたはアダム」
名前という記号は現在、使われていない。そんなものがなくても情報を共有し、お互いを認識できるからだ。
「嫌じゃなかったら、なんだけど……」
「アダム。嫌じゃない」
私は音を出さずに何度か口を動かす。『アダム』という名前を受け取った。
他の仲間の前で新しい名前、『アダム』とささやくように呼ばれる度、今までにない喜びを感じていた。
ただの記号、と思っていたものがこんなにも世界を変えるなんて。
彼女と時間を共有して、彼女のことを考えれば考えるほど脳細胞の普段は全く使われていないはずの領域が活発になるのを感じたが、『ゆりかご』には戻る気になれなかった。
もしかしたら、エラーかもしれない。でも、戻りたくなかった。
この感情の正体はどれだけ調べても、分からない。
「意識は、感情は本来無限に広がっては収束していく。そういう物なの。大脳神経ニューロンと宇宙の形はとても似ているのよ」
イヴの講義を聞きながら思う。
意識。脳の領域。つまるところ、私はエラーを恐らく起こしている。
イヴと二人で話す時間は沢山あるのに、気になっていた人魚の話の続きが、なぜだか聞けなかった。
イヴも話さなかった。思う所があるのだろうか。
――それとも私との約束なんて忘れてしまったのか。
エラーを治さないまま、私は一七五センチになり、明日で彼女と五年目を迎える。
「イヴ、明日は君がここに来た日だよ」
「そうね。五年目になるのかしら」
イヴは思いを馳せるように目を細める。
イヴが来てからの生活はとても刺激的で、楽しかった。
これからもそれが続けばいいと思う。
「お祝いをしよう、食べたい物とか欲しいものは何かある?」
「いつも通りでいいのに。アダムが優しいから今日まで生きて来ることが出来た、それだけでいいの」
「これからもずっと生きるだろう。何を言ってるんだい」
「そう、これからも、ずっと生きる……のね」
髪をかきあげながら、イヴが言う。
どうしてそんなに暗い表情をしているんだ。
彼女は時々、そうなる。それでも回数は初めに比べて大分減ったのだ。
死なない、と分かっていてもイヴの時代は死が当たり前だった。
やはり不安なのだろうか。
「ねえ、何か心配事があるなら……」
「大丈夫、ないわよ。明日はやっぱり豪華な食事がいいな」
頭を傾げながらイヴは子供のように笑う。もう私のほうが見下ろす形になっていた。
「分かったよ。君の好きなものを用意しておくね」
「ありがとう。ねえアダム」
パネルに指を滑らせはじめた私に向かってイヴが声を上げる。
「人魚姫はね、人間になりたかった、というのもあったけど、短い命でも死なない魂が欲しかったのよ」
「転生することができる魂が欲しかったの。永遠とは洗い流し、めぐること、と考えたのね」
私の指が止まる。あの時の話の続き。五年も前のことをなぜ。
「そうなのかい? それなら、それは私達のことだね。私達は死ぬことがないから」
「…転生は――そうね」
イヴは何か言いたげな気もしていたが、話は終わりとばかりに私が座ってる椅子に強引に二人で座り込むと明日の夕食は何にしよう、と声を弾ませた。
いつもどおりの彼女だ。何も変わらないし、明日もきっと変わらない。
いや、明日はきっともっと楽しくなる。
私はイヴを軽く押しながらふざけあうと、パネルの操作を続けた。
決めていることがあった。
明日はイヴに言いたいこと、いや、お願いしたいことがある。
「実はね、明日はイヴに渡したい物があるんだ」
「何かしら」
「楽しみにしてて。明日のお楽しみだよ」
分かったわと言うとイヴは私に抱きついた。
その日の夜は、イヴの名前を初めて呼んだ夜と同様、なかなか寝付けなかった。
次の日の朝、彼女が赤い水たまりの中で静かに眠っているのを発見した。
机の上のメモには『ごめんなさいアダム』と書かれている。
「イヴ、どうして」
私の喉は、聞いたことのないような音をだしていた。
彼女とメモを何度か見返す。
体の中を何かが走るのを感じる。
ここ最近どんどん増えていた、あの感覚。
脳の中で生まれようとしている何か。
脳のデッドスペース。
私達が捨てた機能、ああ、そうか――。
その瞬間、今までの生まれて再生し、記憶を挟み、再び生まれ、という工程が一気に頭の中に浮かぶ。
ウォーターシエル、海の世界、仲間の顔、イヴの顔。
私が三十三回ほど繰り返された後、映像は止まった。
胸をぎゅっと掴む。服がシワになるのも構わずに握る。
動悸が酷い。呼吸が荒くなる。
横たわるイヴを見ると、嗚咽が止まらなかった。
その時、私は、肉体ではなく、意識という生を受けた。
洪水のように押し寄せてくる、感情の波。
今まで感じていた単純で一定パターンの電気信号が吹っ飛んでいく。
私はあえぐ。のみこむ。おさえつける。うけつけない。うけいれる。
最後に浮かんだのは、聖書を持って私を見つめる彼女の顔。
『私の罪は償えるのかしら』
記憶の中の彼女。イヴ、君は。
私は彼女の全てを分かった気になっていた。なんて馬鹿な奴なんだろう。
自分の幸せを優先して、イヴの苦痛から目を背けた。
涙の理由。時折うなされていた、夜。
私は彼女に寄り添った気でいて、満足してしまっていたなんて。
「ごめんよ」
頬を伝う涙をぬぐった。
「そんなつもりじゃあ、なかったんだ」
まだ言い訳をして、何度も何度も謝る。
彼女はもう許してくれない。
『ゆりかご』へ行けば再生が受けられるだろう。
でも、イヴはきっと。
「最初から永遠の命なんて望んでいなかったね」
二度と戻らない日々と彼女。
目を瞑ると、頬がひどく熱かった。
――悲しい、とはこういう感情か。
いつの間にか、仲間がやってきて、彼女を連れて『ゆりかご』へ行こうと笑顔で言うので私はその役目を引き受ける。
笑顔が、とても、なんというか、きもちわるかった。
イヴを冒涜されているような気になった。
イヴの体を腕に抱いて『ゆりかご』へ向かう。
彼女の信じた聖書を胸に抱かせて。
「イヴ、君が、そう思っていたなら、仕方ないね」
私は聖書の全文を覚えていた。
イヴの言葉も、全て覚えていた。
「神は死んだ。いや、私が殺すのか」
これから最後の審判が始まるだろう。
審判を下すのは神ではなく、人間という失われかけている種だ。
種の終わりが近づいている。
多くの命は再生のない地獄に落ちることになるが、後悔はない。
肉体に痛みが、恐怖が、自分への憎しみが、怒りが、戻ってくるのを感じる。
そして――。
『私が死んだらどうか悲しんで、嘆いて、苦しんで。全身で、あいして』
イヴが昔はよく言っていた言葉を思い出す。
私は、何を不安に思うんだ、死なないから大丈夫だよ、と的外れなことを返していた。
いつの間にか再び頬を伝う涙をぬぐった。
ぬぐってもぬぐっても止めどなく溢れてきて、唇についたソレを舐めるとしょっぱかった。
『悲しい、と涙がでるんだよ。海の水みたいにしょっぱいの』
こっそり泣いていたイヴ。
涙を見て心配していた私に告げたこと。
回廊を進むと、海中が見えた。
相変わらず美しい。偽りの人魚が暮らす、偽りの楽園。
結局、おとぎ話の人魚は失くした物を取り戻せなかった。
「君を取り戻せたら良かったのにね」
イヴに顔を寄せて言ってみたが、腕の中のイヴは何も答えてくれない。
人間の体は海から来たという。ならば、海へ帰るのだろうか。
そこに彼女はいるのだろうか。
天国へは行けない。私達人間が最初に交わした死という約束を破ったから。
歩いて、歩いて、『ゆりかご』の前へたどり着いた。
どんな道順でここまで来たのかも思い出せなくなっていた。
『ゆりかご』は相変わらず穏やかで、命を抱いていた。
さあ、傷を癒やしてあげる。再生の祝福を、と言っているように見える。
「――私達はそこには行かないよ」
その時、視界がぼやけて、足に力が入らなくなってきた。
今まで正常に動いていたのが嘘のように、いよいよ意識というものが私から離脱しようと暴れているのを頭の隅で認識する。
「私は私でいたいんだ。このままで在りたいんだ。イヴのことを、彼女への想いに苦痛が紛れていても丸ごと持っていたいんだ」
『ゆりかご』に戻れば痛みも苦痛も消えて、綺麗な記憶だけが残るだろう。
でも、それは、まやかしの幸せだ。
埋め込まれたチップと私の争い。手に入れた感情は、意識は、やはりエラー、ということらしい。
彼女の体を床に下ろすと、残った力を振り絞って虹色の『ゆりかご』に何度も何度も手を打ち付ける。
触れたことはなかったが、柔らかいと思っていた『ゆりかご』はひどく硬かった。
私達を包む、水の膜。
痛い。痛い。痛い。いたい。いたい。いたい。
それでも私達の体はとても、頑丈なのだ。大抵の物質は破壊できるぐらいに。
「どっちも頑丈に作り過ぎだろう」
私は激痛の最中、苦笑していた。
『ゆりかご』。
ふと、この中に仲間は何人いるのだろう、と途中で考えたが、やめた。
揺らめく虹彩、広がる蜘蛛の巣、漏れ出すおびただしい命のアムリタ。
手からにじみ出る血と、触れる度にとけていく肉と骨と。
『ゆりかご』にもたれ掛かると、ずるずると重力にしたがって体が床へ落ちていく。
虹が消えて、耳をつんざくような甲高いサイレンの悲鳴、点滅する赤の世界が辺りをつつんでいく。
「なるほど。これが地獄か」
私の体から流れる赤い液体と、割れた『ゆりかご』から流れる大量の緑色の液体が交じり合う。
どんどん水かさが増している。水が、命が、迫ってくる。
使い物にならない腕で、何とかイヴの体を抱き寄せた。
私は怖かった。子供に戻ってしまったように。
足を腰を胴体を腕を首を顔を飲み込んで行く。
溺死。教科書でしか見たことのない単語だ。
大昔は水責め、という人の口を無理やり開いて、ひたすら水を飲ませては吐かせる、という野蛮な拷問があったという。
どうやら、とても苦しいらしい。
死にかけた私の中を『ゆりかご』の羊水が満たしていく。
体が内側から溶けていく。
肺に水が侵入する。息が出来ない。頭を振る、苦しい。無意識に手を頭上へ伸ばしている。
酸素を求めて口を開くと、即座に液体に満たされて、ゴボゴボという嫌な音と共に気泡がはじけて消えた。
ああ、今、与えられる全ての苦しみごと、痛みごと、彼女を。
――あいしてる。
『私も愛してるよ』
どこかから彼女の声が聞こえた気がした。
何もかもが溶けて水に返っていく。
『限りある時間をどうか、恐れないで。』
『生きることを、『たましい』を放棄しないで』
『眠る、ことは、優しいよ』
『ずっと一緒にいる、こわくないよ』
さあ、
おやすみなさい。
世界は急速に暗転して、私の意識はぶつん、と途絶えた。
今日の夜眠ります。
あなたは死にます。
明日の朝起きます。
あなたは生まれます。
昨日の私は今日の私と同じ人物でしょうか。
朗らかに笑う彼らから都合よく抜き取られた『たましい』はいつか戻る日が来るのでしょうか。
それまで何度でも溶けるなんて、私には耐えられないのです。
私が背負った罪は何億か数え切れません。
――Eve