上客さま
翌朝、朝食を運んだ時に東原が連泊するのだと言った。
ご飯を茶碗によそいながら美咲はありがとうございます、と応える。
「それにしても、この旅館の料理は本当に何を食べても美味しいですね」
「ありがとうございます。板場に伝えておきます」
嬉しくなった。
料理を喜んでもらえるのは何よりだ。
「今日は、どちらかへお出かけなさるんですか?」
味噌汁の椀を差し出しながら美咲は訊ねた。
「いえ、今日は知人をここに呼んでいるんですよ。将棋仲間でしてね、盤を挟んで語り合う予定です。あぁそうだ、昼の食事を注文できますか……?」
連泊の上に昼食を注文してくれるとは上客である。
「美咲さんは、今日も一日お仕事ですか?」
東原が期待感を込めた様子で訊ねてきた。
「いえ、実は今日は……」家に帰らなければ。周が待っている。
「そうですよね、今日は土曜日だ。ご主人が家で待っていらっしゃるでしょう」
そうじゃない。待っているのは弟と猫二匹だ。
「……どうかしましたか?」
「いえ、なんでもありません。失礼いたしました」
緑茶を淹れて湯呑に注ぐ。いけないいけない、顔に出しては。
食事が終わったら呼んでください、と言い残して美咲は部屋を出る。
それから深く溜め息をついた。
どうも、いまいちプロとしての自覚が足りないのではないか。
もっと昔、もっと辛いことはたくさんあったはずなのに。それでも顔に出さずに一生懸命笑ってきた。
この頃、少し弱くなってしまったのだろうか……。
客室を出ると、ちょうど廊下で孝太と出くわした。彼は片手に何か包みを持っていた。
「これ、あいつに持って行ってやろうと思って」
「ああ、昨夜の翔君……だったわよね」
匿ってもらって旅館の料理が食べられるなんて贅沢な話だ。
「孝ちゃんは本当に優しいのね。そうだ、洗濯物があったら私がやっておくわ」
すると孝太は笑って言った。
「嫌がると思うぜ? 何しろ、年頃の男の子だからな」
そういえば今でこそ何も言わなくなったが、初めの頃、周も洗濯物を一緒にするのを嫌がったものだ。
「そういえばサキちゃん、今夜もシフト入ってる?」
「ううん、今日は家に帰る」
「マジかよ? 今日から三連休だから、かなり予約埋まってるんだぜ」
女将は何もそんなことを言わなかった。
言ってくれればもう少し予定を調整したのに。彼女は彼女で、美咲に何かと気を遣っているのだろう。
周の顔が浮かんだ。
あの子は口では強がっていても一人では寂しくて、今日も帰れないと聞くと不機嫌になるに違いない。どうしよう。
そう思った時、美咲の携帯電話が鳴りだした。周からだ。
「もしもし、周君?」
『……今日もどうせ、帰って来ないんだろ?』
どうしてわかったのだろう。
もしかしてカレンダーでも見ていてふと、気付いたのかもしれない。
「うん……ごめんね、本当に」
『別に』
「そうだ! ねぇ、周君もこっちに来ない? 全然遠くないんだし」
『……誰が猫の面倒見るんだよ』
そして通話は切れた。やっぱり少し怒っているようだ。
「……義弟から?」
まだその場にいた孝太が訊ねる。ええ、と美咲が頷くと、
「今日も仕事で留守にすんのかよって怒ってたんだろ? いくつになるんだっけ、ずいぶんな甘えん坊だな」
確かにその通りだ。美咲は苦笑するしかない。
「早く彼女を作ってそっちに甘えろって言ってやりなよ。まぁでも、サキちゃんみたいな美人がすぐ近くにいたら、他の女なんて目に入らないだろうな」
じゃ、行って来る。
孝太は踵を返し、それから何故か急に立ち止まって振り返る。
「……何があっても、絶対に一人ではあいつ、翔に会ったらダメだぞ」
突然何を言い出すのだろう。
美咲は不思議に思ったが、それ以上は訊ねることをしなかった。




