板前さんと仲居さん
すっかり汁物もご飯も冷めてしまったことだろう。
厨房に戻って温め直してもらおうかと美咲がそう考えた時、
「息子がいるんですよ」急に東原は言った。「正確には『いた』なのかな。先日亡くなったものだから……」
「そうでしたか、それはお気の毒に」
傷心の理由は離婚だけではないようだ。
息子の死が、夫婦の間に取り返しのつかない亀裂を入れてしまったのかもしれない。
「遅くに出来た子でね、本当に可愛かったんですよ。親バカってさんざん言われて……けど、本当にただのバカだったんですよ、俺は」
いったい何を言いたいのだろう? この人は。
少し酔いが回っているのではないか。
「どうしたら良かったのか、何が正解だったのか、誰も教えてはくれなかった」
泣いている。
美咲は懐からハンカチを取り出した。
「お食事終わったら、フロントにご連絡をお願いします」
旅館にはいろいろな客が来る。
ただの勘に過ぎないが、もしかしたらこの男性は妻に裏切られたのではないだろうか? そんなことを考えて美咲は首を横に振った。
お客様の事情を詮索してはいけない。
客室を出て厨房に戻る。すっかり戦闘状態は落ち着いて、板前達も少し余裕の顔をして後片付けを始めている。
「ずいぶん長い間客室にいたみたいだけど、何か妙な客だった?」
板前の1人である石岡孝太が声をかけてきた。
彼は美咲より二つ歳下の板前で幼馴染みである。随分長くこの旅館で働いているベテランだ。
「……ちょっと、いろいろある人だったみたいよ」
すると孝太はじーっ、と美咲を見つめてきた。
「な、なに?」
「気をつけろよ、サキちゃん。新手のナンパかもしれないぞ」
「何よ、それ」
「不幸な身の上話を聞かせて同情を誘ってさ……サキちゃん、黙ってじっと話を聞いてくれるだろ? それで男の方は良い気になって、隙あらば……」
その時、洗い場の方から板長の声が飛んできた。
「お前、何さぼっとるんじゃー!!」
孝太は慌てて自分の持ち場に戻った。
美咲はくすっと笑って事務所へ戻り、それから携帯電話をチェックする。周からメールがきていた。
『プリンが寂しがっているので早く帰ってきてください』
プリンって何だったかしら? 一瞬不思議に思ったがすぐに思い出した。
先日周が拾って来た三毛猫だ。
寂しがっているのは猫じゃなくて周君の方じゃないの? そう言いたいところだが、ストレートに聞いても肯定する訳がない。
『明日はなるべく早めに帰ります』
そう返信して美咲は再び仕事に戻った。




