紫の~
「あの、私のことをご存知なのですか?」
美咲は思い切って男性客に訊ねた。すると、
「いや、直接と言う訳ではなくて……知人が以前、この旅館に泊まったことがあるらしくてね。美人の仲居さんがいるから行ってみるといいと勧められたんだよ」
この年代の男性にしてはほっそりした身体つきをしているその男性客はしかし、眼つきだけがやたらに鋭い。
恐れ入ります、と述べてから美咲はお茶を淹れた。
「午後6時半にお食事をお部屋にご用意いたします。ごゆっくりお寛ぎください」
立ち上がりかけたが、
「もう少し時間が許すなら……私の話に付き合ってくれないだろうか?」
何だろう? そんな時間はないと言ってしまえばそうなのだが、出来る限り客の要望には応えたい。美咲は畳の上に座り直した。
「美咲さん、でいいのかな?」
男性客はお茶をすすりながら微笑んだ。美咲が肯定すると、
「失礼。私は……東原といいます」
それから東原と名乗った男性客はいろいろと訊ねてきた。
地元の人間なのか、どれぐらいこの旅館で働いているのか。
毎日何人ぐらいの客を相手にしているのか、お勧めの土産物は何か……そんな当たり障りのない話が続き、美咲は笑顔で答えた。
ところで、と東原は突然胸ポケットから何やらカードのようなものを取り出した。
「百人一首は好きですか?」
唐突な質問だ。
「実を言うと、あまりよくわかりません」美咲は正直に答えた。
そうですか、と東原は笑いながらかるたに書かれた歌を口に出して読んだ。
『紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも』
そして意味を教えてくれる。
「……紫草のように香れるあなたがもし憎かったなら、人妻と知りつつも、なぜこんなにも恋こがれようか、と言う意味ですよ」
要するに不倫の歌ということか。
美咲は努めて顔に不快感を出さないようにした。
もしかしたらこの男性客も、この旅館で不倫相手を待っているということだろうか。
すると東原は笑って、
「私は別に、ここで不倫相手を待ってる訳じゃありませんよ。純然たる1人旅です。ただ貴女の意見を聞かせて欲しい……」
「私の……?」
この人はいったいどういう人だろう?
「この時代……もちろん今でもあるのでしょうね。家のために、自分の意志とは関係なく好きでもない相手と結婚するという話は。もっとも、一緒に暮らしている内に情が移ってくることもあるでしょうが」
「そう、ですね……」
「だからといって、夫のある身で他の男と通じる女性を、あなたはどう思いますか?」
どうしてそんなことを訊いてくるのだろう? まったく意図がわからない。
美咲が困惑しているのを見てとったのだろう。東原は苦笑して、
「すみません」と言った。「お仕事の手を止めて申し訳ない」
ほっとした。美咲は立ち上がって部屋を後にした。
それにしてもいったいなんだったのだろう? 旅館にはいろいろな客がくる。
いちいち気にしてはいられないのだが……それにしても。
夕食の時間になった。この旅館では基本的に部屋食となっている。
個人的には食事処に移動してもらった方がいいと美咲は思うのだが、創業時からずっとこのスタイルは変わっていない。
東原の宿泊している303号室へ料理を運びながら、今度は何を訊かれるのだろうかと少し身構えていた。
「さっきは申し訳ないことをしましたね」東原が言った。
いいえ、とだけ答えて美咲は手元に集中する。
「……実は、今回の旅行は傷心旅行でしてね。30年近く連れ添った妻と別れることが決まったんですよ」
彼はビールを二本と冷酒を2合注文していた。
美咲は手酌で注ごうとする東原の手から瓶を取って、グラスに注いだ。彼は美味しそうにそれを飲み干してから、
「私が悪いんですよ。仕事が忙しくてね、家庭はほったらかしだった」
本当は料理の説明をしなくてはならないのだが、どうやら相手はそれを望んではいないように思えた。美咲は黙って膳を並べていく。
「会社のために、家族のため一生懸命働いて、それが正しいことだと信じていたのに」
意見を求められない限り、決して自分からは口を挟まない。
だから美咲は心の中でだけ返事をしていた。一生懸命働くのは間違ってはいない、と。




