思いがけない可能性
「そう言えば、賢司さんは元気?」
智哉は小学生の頃からよく藤江家に遊びに来ていた。
二人が小学生低学年だった頃、兄の賢司は大学院生で、ほとんど無料で二人の家庭教師をしてくれた。
周は身内だからともかく、智哉は彼の両親が申し訳ながって、中学に上がる頃までちゃんと月謝を払って賢司を家庭教師として正式に雇っていた。
中学2年生ごろから今日まで、ほとんど彼は家に来なくなっていた。
それというのも、智哉の両親が離婚したからだった。
家の中のゴタゴタが解決するまでは、と彼なりに決めていたのかもしれない。
「さぁ、たぶん元気なんじゃないの? 少なくとも病気で仕事休んだって話は聞かない」
「忙しいんだね、相変わらず。でも、立派な仕事だよ。病気で苦しむ人を助けるために必死なんだから」
そうなのかもしれない。けれど。
「智哉の論理で行くと、尊い仕事をしてる人間は自分の家庭を、家族を犠牲にしても別にかまわないってことか?」
彼の父親は医師だった。
救急病院に勤務しており、急患が出れば深夜も早朝も関係なく出かけて行く。彼の母親はいつしか夫とのすれ違いに嫌気がさして離婚を決意したということだ。
「……ごめん。忘れてくれ」
智哉はソファーに腰掛けた。気を悪くしたのかどうかはわからない。
ただ静かな表情で猫達の動きを見守っている。
湯が沸いたので紅茶を入れた。
「ところで、相談したいことって何?」
そうだった。その為に来てもらったことを今さら思い出す。
周は自分の部屋から先日届いた怪しい手紙を持ってきた。
智哉は手紙を一目見るなり「何、これ」と苦笑した。
「悪戯じゃないの?」
「俺も初めはそう思ったよ。けど……その相手だっていう男が目の前に現れて、その上義姉のこと訊いてきたら……」
「え、浮気相手に会ったの?」
「なんか、間違えて隣の家を訪ねてきてたのをたまたま見かけた」
智哉はしばらく思案顔をし、それから「ストーカーじゃないの?」
それは思いもよらない可能性だった。
「お義姉さん、美人だから。ストーカーの一人二人いてもおかしくないんじゃない?」
もしそれが真実だったしたら今度は別の心配が湧いてくる。
何度もテレビや新聞で、ストーカー殺人のニュースを見聞きする。
周は急いで携帯電話を取り出し、美咲の番号をダイヤルする。
しかしすぐに無機質なアナウンスが流れた。そこで彼女の実家である旅館の電話番号を調べる。
「智哉、ごめん。ちょっと待ってて」
周は友人をリビングに残して自分の部屋にこもる。
『お電話ありがとうございます。御柳亭、米島が承ります』
旅館に電話をすると、中年の女性らしき声が聞こえた。
「あの、藤江美咲……いや、寒河江美咲はそっちにいますか?!」
すると一瞬電話の向こうが静まり返ったかと思うと、気のせいか、舌打ちするような音が聞こえた気がした。
『どちら様?』
ものすごく面倒くさそうな、感じの悪い話し方だ。ムッとした周は名乗るのをやめようと決めた。
「いるかいないかって聞いてるんですけど」
つられて周の方もつっけんどんな言い方になってしまう。
『困るんですよね、そういうの。商売の邪魔だから切りますよ』
電話は一方的に向こうから切られた。怒り心頭。
周は思わずベッドの上に携帯電話を投げつけた。リビングに戻ると智哉は自分のスマートフォンをいじっていた。
周に気付くと、
「何怒ってるの?」
「だってさ、あれが客商売する人間の口のきき方かよ?!」
「ま、世の中にはいろんな人がいるからね……」
ムシャクシャする。甘い物でも食べよう。周は冷蔵庫を開けた。
義姉は実家に戻って留守にする時は必ず、いくつかお菓子を作って置いてくれている。チーズケーキが眠っていたので2人分を切り分ける。
メイが食べ物の気配を感じてそわそわしだした。
ニャアと甘えた声で鳴いて分け前を要求するが、猫に人間のお菓子は食べさせられない。
「ダメ。お前達はこっち」
冷蔵庫の奥には以前、和泉がメイへのお土産だと持ってきてくれた猫用のチーズがある。
餌皿にチーズを乗せるとメイはがっつき始めた。
そういえば和泉はどこに出掛けたのだろう。




