血の気が引く瞬間:1
翌朝、まだ午前7時前にインターホンが鳴った。
玄関に一番近い部屋を借りている和泉はすぐに気付いたが、眠たくて面倒だったので聞こえなかったことにした。
今日もこれから出勤だが、せめて遅刻にならない程度の時間までは寝ていたい。いったん捜査本部に詰めることになればゆっくり眠る時間も取れないのだから。
しかし、
「おはようございます、藤江です」と遠慮がちな声に一気に目が覚めた。
周ではなく美咲の声だったからだ。
和泉は急いで起き上がり、寝間着のまま玄関のドアを開けた。
せめて顔ぐらい洗った方が良かったのだろうが。
「こんな時間から、本当にすみません」
恐縮しきった様子で美咲が言う。
化粧はしているが、目が赤く、うっすら隈が浮いていた。あまり眠れなかったようだ。
「私、今日からしばらく仕事で留守にするんです。それで、周君のこと……それとなくでいいんです、もし何か様子がおかしいことがあったら、ご連絡をいただけないかと思いまして」
和泉が何か言うより早く、美咲が被せるように言葉を継ぐ。
「厚かましいお願いなのは充分承知しています。けど、周君は和泉さんにだけは、心を許しているっていうか……これ、私の連絡先なので」
渡されたメモ用紙には綺麗な字で携帯電話の番号とメールアドレスが記載されていた。
「結局、何があったのかはわからないままなんですか?」
美咲は悲しげに首を横に振ると、
「何も答えてくれません」
「わかりました。できる限りの協力はします」
ありがとうございます、と深く頭を下げて彼女は足早に去って行った。
なんだか面白くなりそうだなぁ、と和泉は思わず口元を綻ばせた。
いつも通りに出勤すると、聡介の班のメンバーは和泉と駿河以外誰も来ていない。
毎度のこととはいえ皆が遅刻ギリギリにやってくるというのはどうだろう。
「高岡君」捜査1課長の大石警部がやってきた。
この課長はいつも聡介達のやり方に文句をつけこそしないが、何か問題が起きた時は一目散に責任逃れをしようとするタイプだ。
好きな言葉は『部下が勝手にやったことです』。
「課長、おはようございます」
「大至急、刑事部長のところへ行ってくれ」
捜査1課長は苦い顔をして聡介に告げた。
僕も行きます、と和泉が立ち上がる。しかし聡介は、
「いや、ここで待っていてくれ」
きっと西崎の息子に関することだ。倉橋が上に文句を言ったのかもしれない。
何か言われることは充分予測していた。
普段あまり足を運ぶことのない最上階の部屋へ向かう。
目的地が近付くに連れて心臓が跳ねてくる。重厚なドアをノックすると、どうぞ、と中から声がした。
中に入ると、机の向こうには刑事部長である黒沢警視正が入り口を睨んでおり、その傍らには腰巾着と渾名される参事官の折原警視が立っていた。
「1人なのか?」腰巾着がバカにしたような言い方をする。
聡介はムッとしたのを思わず顔に出してしまった。
「呼ばれた理由はわかっているだろう。安芸中央署のホームレス事件についてのことだ」
「……出過ぎた真似をしたとは思っています」
「わかっているなら、どうして余計なことをした?」
刑事部長はむやみやたらに怒鳴りつけるタイプではない。だからこそ却って恐ろしい。
隠しても仕方ないしいずれはわかることだ。
聡介は西崎と最近会う機会があったこと、彼から息子を探して欲しいと頼まれたことを話した。
「見つけたらすぐに、付き添って出頭すると西崎は言っていました」
「その西崎なんだが」参事官は頭痛がするとでもいうようにこめかみの辺りを抑え、まるで聡介のせいだと言わんばかりに厳しい視線を向けてから、
「昨夜から姿が見えない。もちろん今日も出勤していない」
「それは、どういうことですか?」
「こっちが訊きたい。奥さんから廿日市南署に連絡があった。昨夜遅くに西崎から電話があって、何やら別れめいたことを告げられたそうだ。いつもコンビを組んでいる市ノ瀬という刑事にも連絡があったらしい。やりかけの仕事を頼む、と」
嫌な予感がぐるぐると頭の中を巡った。




