九十四話 泉に現れた水魔
イアンとミークは、グリン森林の泉に辿り着き、そこで魔物の姿を目にしていた。
魔物はイアン達に、背を向けて座っていた。
体長四メートル程の巨体の背中には、大きな背びれが生えており、先端が二つに分かれた尻尾は丸太のように太かった。
体には、黒い鱗が生えている部分があり、とても頑丈そうに見えた。
「イ、イアンさま…」
言葉を詰まらせながら、ミークがイアンを呼ぶ。
「あいつから、やばいってオーラがビンビン伝わってきますぜ。正直、勝てる気がしねぇ。戦わないことが賢明ですぜ…」
「ああ、オレもそう思う。それに見ろ、あいつの周りに浮いている水流を」
イアンに促され、ミークが魔物の周りを漂う水流に目を向けた。
「恐らく、やつが操っているものだろう。あの水流を使って、どんな攻撃をしてくるか分からん。戦う理由は無い。このまま引き――」
「うおおおお!! 」
イアンとミークが振り返ろうとした時、彼らの後ろから、叫び声と共に二人の男がやってきた。
「冒険者ランクC、パラムシアム兄弟が長男、ジャモン! 」
「次男、イオウ! 」
二人の男は冒険者のようであった。
ジャモンと名乗った男は、穂先が三日月状の槍を持ち、イオウと名乗った男は、トゲの付いた棍棒を持っていた。
「兄貴、あいつで間違い無いみたいだぜ! 」
「おう、イオウ。あいつを倒せば、依頼達成だな! 」
パラムシアム兄弟は、泉の前に佇む魔物を討伐しに来たようだった。
「討伐依頼が出されていたか……」
「ちょうどいい! イアンさま、ここは彼らに任せて、俺達は行きましょうぜ! 」
ミークがイアンに提案する。
「ああ、ランクCならば何とかなるだろう」
イアンは、間を置かず答えた。
そして、踵を返し今度こそこの場を離れようとしたとき――
(…二……ゲテ…)
「……!? 」
イアンは、何かが聞こえたような気がして、思わず振り返ってしまう。
イアンは、通信と呼ばれる特殊な会話方法により、妖精と聖獣の声を聞くことが分かっている。
しかし、振り返った彼の目に映るのは、武器を振り上げながら走る二人の冒険者と、その先にいる魔物だけであった。
「……? どうかしたんですかい? イアンさま」
振り返ったまま動かないイアンを訝しんだミークが、イアンに訊ねる。
「……何かの声が聞こえた。女…子供の声だ」
「声…子供…? 」
ミークは耳を澄ましてみる。
「でりゃああああ! 」
「どうわああああ! 」
聞こえてくるのは、叫ぶ冒険者の声のみであった。
「暑苦しい男の声しか聞こえませんぜ? 」
「ふむ…オレにしか、聞こえないと…近くに妖精か聖獣がいるのか? 」
イアンは、周りを見回してみる。
泉、木々、森林の外に続く道、あらゆる場所に目を向けるが、どこにも何かがいる気配はなかった。
「聞こえはしたが、姿は見えず…か」
イアンは、そう呟くと腰を下ろして座りだした。
「イ、イアンさま? 何をするつもりで? 」
突然のイアンの行動に戸惑うミーク。
「イチかバチか、声の主を探ってみる。ここに来てから聞こえた声だ。森林の何処かにいるはず」
イアンは姿勢を整え、瞼を閉じる。
「キ、キキョウお嬢ちゃんの真似ごとですかい? こんな土壇場で、出来るんですか? 」
「音が耳に入れば、だいたいどの方向から聞こえたか分かるだろう? その理屈でいけば、探し出せるはずだ」
「そんな、無茶な…魔物が暴れだしたらどうするんです? 」
冒険者の二人が、魔物に攻撃しているが、硬い鱗に弾かれ、まともにダメージが入っていないように見えた。
そのせいか、魔物は動くことはなく、泉の方に体を向けている。
「そのときは、何とかしてくれ。では、集中するので声を掛けるなよ」
イアンは、そう言った後、口を固く閉ざした。
「こんなことやってる場合じゃないと思うけど……って、イアンさま? 」
背筋を伸ばして座っていたイアンだが、徐々に前のめりに倒れだした。
慌てて、ミークがイアンの体を支える。
「ちょ…嘘、この人こんな状況で寝だしたよ! うわぁ…どうしたらいいんだ」
ミークは、イアンが寝てしまったと思っていたが、この時イアンは、気を失っていた。
目を瞑り、聞こえてくる声の主を探ろうと試みたイアンは、暗闇の中にいた。
上下左右どこを見ても黒色であったが、立っているという感覚がするので、上下の方向感覚に問題は無かった。
「……むぅ、また変な空間に入ってしまったようだ…」
予想外の事態に困惑するイアン。
こんな空間い来たいわけではなかった。
「…留まっていても何もならん。とりあえず、前に進んでみるか」
そう言いながらイアンは歩き始めたが、進んでいるように見えなかった。
それでも尚、足を動かし続けていると、足に違和感を感じた。
バシャ!
「……? なんだ? 水? 」
イアンは、足に水が掛かったような感覚を味わった。
気が付けば、目の前に海ができていた。
「いきなり海が現れた。はぁ…仕様はあの空間と似ているのだな」
この急にかつて銀の斧を取りに行った時の空間を思い起こさせた。
そして、イアンをゲンナリさせるのである。
「やるんじゃなかったなぁ…」
こう言ってしまうほど、イアンはこの空間が嫌だった。
しかし、来てしまった以上、前に進まなければ意識が戻ることはないので、嫌々ながらも進んでいく。
「……やはり、海か…」
海と思わしき水は、イアンの腰まできていた。
前に進めば進むほど、この黒い海は深くなっていた。
バシャア!
「くっ…!? なんだ? 」
それまで小さく波打っているだけの海面が、急に荒くなった。
まるで、イアンを押し返そうとしているかのように、高い波がイアンに押し寄せる。
「くそっ! これでは前に進めん! 」
イアンは波に押され、どんどん後ろに下がってしまう。
再度、先を目指して歩くが、荒れ狂った波に押し返されてしまう。
「ふむ…どうやら、この先に声の主がいるとみた。おーい! 誰かいないかー! 」
イアンは荒れ狂う波の向こう目掛けて声を上げた。
荒れ狂う波ばかりが、イアンの耳に入ってくるが――
「……いで……て…」
微かに誰かの声が聞こえた。
「やはり、そこにいるのか! 」
イアンは、頬を吊り上げながら荒れ狂う波に向かって走り出し――
「サラファイア! 」
勢いよく跳躍した後、両の足下から炎を噴出させた。
イアンは、強行突破をすることにした。
「この空間でもできるのだな…」
荒れ狂う波の上をイアンが飛んでいく。
海面に渦ができ、複数の水柱ができた。
その水柱は、蛇のようにしなりながらイアンに迫る。
「……襲いかかる水流か…大体分かってきたぞ。サラファイア! 」
イアンは、襲いかかる水流から逃れるため、更に速度を上げた。
水流はイアンを捕まえることができず、海面へ沈んでいく。
イアンはその光景を尻目に飛んでいき、ようやく荒れ狂う海の先、声の主の元に辿り着いた。
宙を飛ぶイアンの眼前に、誰かが蹲っていた。
イアンが声を掛けようと口を開いた瞬間――
「来ないでください。早く逃げて…」
蹲っていた少女が顔を上げた。
「……!? お、おまえは…! 」
少女の姿をはっきり見ることが出来たイアンは、驚愕で目を見開く。
その瞬間――
「ギャオオオオ! 」
荒れ狂う波の中から、泉の前に佇んでいたものと同じ魔物が飛び出してきた。
魔物の牙がイアンの顔に迫り――
「はっ! 」
イアンは意識を取り戻した。
「おおっ! イアンさま。で、結果は――」
「ミーク! あの二人を下がらせろ! 」
イアンは、ミークが喋っているのに構わず、魔物と戦う冒険者を下がらせるよう命令した。
「はっ!? へい! 」
ミークは、一瞬戸惑ったものの、素早く立ち上がり、腰から二つの鞭を取り出した。
数歩前に進み、両手に持った鞭を二人の冒険者目掛けて振るう。
「ぐえっ!? 」
「なっ!? 」
二つの鞭はそれぞれ、ジャモンとイオウに絡みつき――
「おりゃああああ! 」
ミークに引っ張られ、放物線を描きながらこちらに向かってくる
「シャアアアアア! 」
ジャモンとイオウのいた場所を魔物の牙が通り過ぎる。
数秒、ミークの行動が遅ければ、二人は魔物の牙の餌食になっていただろう。
「痛っ! 」
「ぐぅ! 」
ジャモンとイオウは、ミークの手間に落ちてきた。
二人共、尻を打ち付けたのか、手で尻を押さえながら跪いていた。
冒険者の二人が助かったことを確認した後、イアンは瞼を閉じて念じ始めた。
(モノリユス! )
(はい。モノリユスです)
モノリユスとの通信はすぐに繋がった。
(恐らく…であるが、見つけたぞ)
(見つけた……まさか! )
モノリユスは、イアンが見つけたというものを察して、驚愕の声を上げた。
(ああ、水色の髪の少女を見つけた。そいつは今、魔物の中にいる)
グリン森林の泉の辺は、普段とは違った空気に包まれていた。
「ギャオオオオオオ! 」
森林に、一体の魔物の咆哮が木霊する。
それまで、大人しかった魔物が、今は怒り出したかのように動き出した。
「ひぃ! う、動きだしたぞ! 」
「よ、ようやく本気を出すってことかな? 兄貴」
尻餅をついた状態から立ち直ったジャモンとイオウは、魔物に備えて武器を構える。
ミークは、そんな二人を呆れながら見た後、イアンに目を向けた。
イアンは、片手を耳に当てたまま、動かなくなっていた。
(……魔物の中…ですか)
モノリユスの声がイアンの頭の中に響く。
(信じられないか? )
(いえ、イアン様を疑っているわけではありません。その…どういう方法で、それが分かったのですか? )
モノリユスの声は、震えることなくイアンの頭に染み渡ってくっる。
(声が聞こえたので、その元を探ろうとしたら、変な空間に意識を飛ばされてな。そこに水色の髪の少女と魔物がいた)
(なるほど……)
モノリユスの声は、しばらく聞こえなくなった。
(イアン様は、目に見える姿ではなく、その本質を見たのですね)
再び、モノリユスの声がイアンの頭に響いた。
彼女は、しばし考え事をしていたようだった。
(魔物の中と言いましたが、恐らくその魔物が少女なのでしょう)
(なに? )
モノリユスの言葉に、イアンが眉を寄せる。
(考えられるのは、少女には魔物化の呪いが掛かっていたのでしょう。高位の魔物には、攻撃を与えた者を同じ種族に変えてしまうものがいます。ヴァンパイヤがいい例ですね)
イアンは、モノリユスの説明をうんうん頷きながら聞く。
(魔物化の呪いに掛かった者は、徐々に体が変化していきます。その少女は、実は水色の髪をしていたのでしょうが、魔物化のせいで別の色に変わってしまったのですね。探しても見つからないわけです)
(その水色の髪をしているという情報を、流した奴に文句を言っとけよ)
(えっ!? えーと…イ、イアン様が直接言ってくださると…)
モノリユスは焦った後、消え入りそうな声を出した。
(ふむ…で、どうしたらいい? )
(あ…はい。この場合は……)
魔物がゆっくりと迫る最中、ミークは動かないイアンに痺れを切らし、声を掛けようとしていた。
「よし…とは言ったものの…はぁ…」
しかし、イアンは急に立ち上がったため、ミークが声を掛ける手間が省けた。
立ち上がったイアンは、がっくりと肩を落としていた。
「次こそは、仕留めてやる」
「ここからが本番ってことだね、兄貴」
そんなイアンに目もくれず、ジャモンとイオウは、魔物に武器を向ける。
「まずは、こうだ」
イアンが走り出し、魔物の側面に回り込んだ。
その後、鎖斧を後方に投げ、ある程度鎖を伸ばした後、鎖斧を振り下ろした。
イアンの技の一つ、張縄伸斧撃である。
ガンッ!
鎖斧は、魔物の頭に命中したが、そこの部分の黒い鱗に弾かれる。
この攻撃により、魔物の注意がイアンに向いた。
イアンは鎖斧を手元に戻し、伸びた鎖を格納する。
「これで良し…次は…ミーク! 」
「えっ!? あ、はい! 」
突然名前を呼ばれたミークは、驚きながらも返事をした。
「その二人が魔物に手を出さないようにしてくれ」
「えっ!? でも…いや、分かりました! おらぁ! 」
「何がっ!? 」
「何だかっ!? 」
状況が飲み込めないジャモンとイオウは、訳の分からないまま、ミークの鞭に叩かれる。
二人が怯んでいるうちに、ミークは魔物とジャモン達の間に入り、立ちはだかるように二人の前に立つ。
「依頼を受けてるおめぇ達には悪いが、あれはイアンさまの獲物だ。諦めて帰るんだな」
「何!? ふざけたことを言いやがって、さては山賊だな? 」
「風貌からして、紛れもなく山賊だよ、兄貴」
ミークは、禿頭で半袖の上に獣の毛皮で作った上着を着ていた。
見ようによっては、山賊である。
「なんだと? どう見ても可憐な姫に仕える騎士だろうが! 」
本当か冗談か定かではないが、ミークは自分の姿を騎士だと言い放った。
「……ミークの方もうまくいったようだな。さて、どうしたものか…」
イアンは、魔物と対峙しながら考えていた。
モノリユスに言われたのは、一人でこの魔物を倒すことだった。




